2025年6月28日土曜日

人を傷つける創作は誰かを救えるのか

 どうも。昔は雨があんまり好きじゃなかったのですが、最近は家にいることが多く外に出る用事がないときに雨が降りがちなので割と好きになってきました。シンプルに屋内が好きなだけなのかもしれません。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作における人を傷つける表現についてお話しました。人は傷つけ傷つけられる性がありますが、創作物を楽しんでいるときにもその瞬間は訪れるものなのでしょうか。もしそうなら、自分はどう創作をするべきなのか…。そんなお話です。


『人を傷つける創作は誰かを救えるのか』

 今までのテーマとくらべると少しセンシティブな香りのする今回のテーマですが、創作や表現を世界に向けてする上で避けては通れないことだと思うので一度話しておこうかと。
 これこそ人それぞれな部分はあるかもしれませんが、自分の苦悩や他人の苦しみ、共感や本質を描こうとしたとき、必ずしも楽観的でポジティブな答えにならないことがあります。というか、ポジティブな側面を描きたいときこそ、ネガティブな要素や苦しみ、悲しみを知っておく必要すらあるのではないかなと思います。四面楚歌ですね。
 そういった意味で、本質的な創作をする上で、人の内面的な弱さや目を背けていたい事実に踏み込んでいくことは避けては通れないのかなと思います。ただ、そういう踏み込んだ表現や描写を受け取ることで自身にダメージを負ってしまう、という経験が…受け手としての僕はそこまでないですが、中にはしっかりダメージを負う方もいたりするかと思います。
    それらはキャラクターへの感情移入が創作の域をこえて、現実世界にいる人と同じような関係性や感覚になるからこそ生まれるものだったり、受け手が抱えているコンプレックス等がトリガーになる場合もあったり、その瞬間は様々。

 創作をし始めた当時の僕は、そういった、創作で人が傷つくことについて悩んでおりました。自分の作品が本質的になればなるほど、自身の欲求やコンプレックスに絆されずに書けば書くほど、それらは冷たくて、現実的で、でも避けられない事実だったりしたわけです。洗練させることの副作用、ともいえるかもしれません。

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 しかし、少し考えてみたくらいの段階で、想像で傷つく人を想定して表現をしたところでキリがない、と悟ります。例えば100人中99人が共感して感動した作品があったとして、100人中99人が共感して感動した作品だから嫌、辛くなる、という人がいるように、万人にフィットする表現はないのだなと。
    ただ、めっちゃくちゃ尖った表現をしたり、強い言葉を使っても傷つかない創作物がたくさんあるのも事実。これは一体なんだろうと考えたときに、悪意を持って、傷つけることを目的に制作をしていない、というのが指標として重要なのではないかと気づきました。そしてそれは、作り手だけではなく受け手にも言えることで、作品に対して最初から否定的な目線で臨んだり、文脈を意図的に切り取って解釈しようとしない限りは、不用意に傷つくこともないのではないかと思い至ったわけです。
 そしてその前提があったうえで、それらの表現を"創作"の文脈で伝えきり、受け取りきることができればより傷つくことはないのでは、と当時の僕は考え至りました。
 そうした不安を払拭して『レプリカリウム』等から始まる、今の自分の制作のスタンスにつながっていたりします。

 もちろん、表現自体に自由は保障されている世の中ではありますが、責任も伴うのが暗黙のルールでありまして、その点で創作者は創作の文脈を超えないもの、現実を侵犯しすぎないことが肝要なのかなと思います。とはいえ、作品や時代ごと、目的によって超えていくラインは変わっていくので、それらの感覚をしっかり養ってギリギリを攻めていくことが、ある意味では本質を突いていくということなのかもしれません。

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 さて、ここまで人を傷つけないように、という話をしましたが、僕はどちらかといえば悪意を持った創作物でないかぎり、傷つけたり、落ち込んだりするような表現はあっていいと思っています。
 例えば辛いことや悲しいこと、自分と重なって深く共感する表現というのは、それ自体が傷を癒す薬にもなることがあるからです。自分の状況や考えを改めて見つめるきっかけになったり、自分以外にもこの苦しみを分かってくれる人がいる、自分の苦しみを代わりに表現してくれているんじゃないかと思える。それらは、どん底の世界で見つけた美しい花のように、自身の世界観を変える一助になりえるのではないかと思うわけです。そしてそれこそが創作が持っている強みなのではないでしょうか。
 こうした文脈的なラインと、届いたときにどんなことが起こるか、を想像することで、僕は自分の表現に自信を持てましたし、迷いもなくなりました。

 結局のところ、そういった表現を創作に昇華するためには自分自身が先陣をきってボロボロになるまで向き合うことが大切で、そうして見つけた答えにこそ本質が宿り、人々の心が動かされるのでは、というようなお話でした。

    どうせ自由に表現できるのであれば、中途半端にかみ砕いたものではなく、懇切丁寧に自分のものにしたものを表現していきたいものですね。
 それではまた次回。亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年6月18日水曜日

“結果が出ない時期”との向き合い方

 どうも。梅雨の時期に季節感たっぷりの延々日和のShorts動画をYoutubeにアップしてやるぜ~!と息巻いていたのですが梅雨ないなった…。生粋の晴れ男、時計塔プロジェクトの吉岡大地です。

 今回は上手くいかない、いわゆる"落ちている"状態にどう向き合っているのか、ということについてお話しました。最近は作家の方とお話する機会が増えまして、そのたびに成功の裏には日の目を浴びない多くの"上手くいかない"があり、そこを耐え忍び突破しているからこその"上手くいく"があるのかなと思ったり。なんできびしい世界なんだここは…。



『“結果が出ない時期”との向き合い方』


 結果については以前話した『結果が出てないのになぜ続けるの?』( https://ctpjblog.blogspot.com/2025/03/06.html )を参照していただいて…。
 そんな結果が、今のSNS時代の影響もあり数字としてとっても分かりやすく、目に見える指標として白日の下に晒されています。これがなかなか今を生きる活動をしている人間に良くも悪くもド刺さりする仕様で、特に結果を得られない場合に精神的な面で容赦なくダメージを与えてきます。
 ただ一応、そういったネガティブな側面もありつつ、現状を客観的に観測できるという側面もあるのも事実。活動の流れやバイオリズムが可視化されることで見えてくる方針や改善の余地もあるかと思うので、一概に悪いとも言えないということは理解しておく必要があると思います。
 とはいえ、ネガティブな側面は無視をするには大きすぎる。ここにしっかりと折り合いをつけ上手に付き合っていくことがやはりこの時代で活動をしていく上で大切なことなのかなと思うわけです。

 そこら辺を整理する前に、前提として作品を作ることと作品を広める(結果を出す)ことは必ずしも同じ能力ではなく、それに向けて磨くもの、こなすタスクも全く違ったりします。
 このプロジェクトにおいては特に、作品は結果に左右されるものではなく、僕自身がいいと思ったものを作ることを目的として活動しています。ただ、だからといって広まる必要がないというわけではありません。(性質として広まりづらいという事実は受け入れる必要はありますが…)
 もし作品自体が大衆向けではない、広まりづらいという部分があったとしても、人に届けるクオリティに到達していないという場合を除いて、その作品の中で一番伝わりやすい、伝えやすい形にして届けるということは作品を変えずともできることなのかなと思います。つまり、伝わりづらくても、伝える努力を怠っていい理由にはならない、ということです。
 だからこそ僕自身も作品は変えずとも伝え方を試行錯誤しているので、上手くいかなかったときは「ダメだったかぁッ!!」とじたばたしながらAPEXやゼルダの伝説を起動し現実逃避をするわけです。

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 ただそのなかで気を付けなければいけないのが、その結果が本当に自分の作品に興味を持たれなかったのか、それともただ気付かれなかっただけなのか、という事実を見極めることなのですが、これがまた難しい。数字だけでは判断ができない部分なのです。
 それを理解していないと、判断や特定が難しい事実を「作品がダメだったのかな…」「自分の宣伝が足りなかったのかな…」と感情で決めつけてしまいがち。これは起こったことに対する理由や因果関係が不明瞭だとストレスになってしまうことに起因する、ある種の防御反応みたいなもので、事実を誤認したうえでネガティブな感情も併発してしまうという最悪の結果になり得るのです。

 改めてそういったことを理解したうえで、一度冷静に"上手くいかなかった"を見る必要があるのですが、同時に"上手くいった"、いわゆる活動の"上振れ"にも実は同じことが言えるのです。
 大体人はいい結果の時に「これがワイの実力やったんや…」と感情で判断しがちですが、これも下振れと状況は同じで、たまたま見る人が多い時間帯に投稿していたり、時の運や流れに沿ったものを"良い"タイミングで出せたことによる上振れだったりします。同じタイミングに同じものを発表したとき、状況や環境が違うだけで真逆の結果になることだって全然あり得るわけです。それって果たして実力なのだろうか…。と、僕なんかは考えてしまうわけです。
 なので、そういったことを加味したうえで自分はどうしているのかといいますと、数字に関しては極力中央値を見て、それを自分の実力や今の場所だと判断するようにしています。もう少し踏み込んだ表現をすると「当たり前になっている数値」とも言えるものでして、ここの上昇、下降によって活動の調子を判断しています。上振れも下振れもしていない数値ですね。
 ここに向き合うことで、その中央値にどれだけ僕以外の誰かが時間と労力を使ってその数字を支えてくれているのか、という認識を改めることができるのです。あえて当たり前になっている数値と表現しましたが、僕自身はそれをすることによりそれは自体が当たり前ではなことだよな、有難いことだなと再認識できます。この認識を常に持つことが、上下に振れても冷静でいるために大切なことなのだと僕は考えています。

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 長くなっていますが最後にそれでも落ち込んでしまったときどうするかという話を少しだけ。

 基本的に落ち込むようなことがあったとき、僕はしっかりと落ち込むようにしています。落ち込むということはそれだけ現実を見る時間にもなりますし、過大評価して次の行動を起こすよりもよっぽど有意義な時間だと思っています。
 とはいえ、落ち込むことによって作業が手につかなくなったりすることもありまして、そういった場合のしわ寄せは大体未来の自分がリカバリーしなくてはなりません。それ自体は非常にデメリット。さて困りましたね。
 そこで僕は「落ち込む時間は無駄。非効率だ」と自分に言い聞かせ、少しずつ自分の考え方を変えていきました。実際作業の手が止まれば無駄な時間ですし、リカバリーするのも自分だし、落ち込んでた時間であれもこれもできたよな…と落ち込み終わってから思うようにしています。
 もちろん、まったく落ち込まなくなったわけではないですが、落ち込むこと自体減りましたし、立ち直る時間も早くなりました。
 そもそも、落ち込むということのメリットは"現実を受け止める"というところにあり、他はその副産物でしかないので、そのメリットだけをしっかり享受したら切り替えていこう、というのが僕が最終的に達した"上手くいかない時期"の向かい方、という話でした。

 動画では他にも「広まらない作品は良くない作品なのか」だったり、「成功の仕方を選ぶこと」について話してるので、気になった方はぜひ動画も見てみてください。

 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。


時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年6月7日土曜日

創作を続けるためには

 どうも。先日Switch2が当選しまして、当日までなにも手につかないかと思いきや、制作の締め切りだらけで手を動かさないわけにはいきません。みなさん、これがどういうことかもうおわかりですね?しばらくは環境的モチベで制作をします。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作を続けるために、というトークテーマで動画を撮りました。ここのところ動画時間は20分以内と勝手に決めていたのですが、気がつくとオーバーしてしまいます。配信もそうですが、この手のものは慣れると長くなりがちですね。気をつけなければ。

 さて、そんなわけで早速本題にいきましょう。


『創作を続けるために、僕がしていること』

 みなさんご存知のことかとは思いますが、僕は時計塔プロジェクトと作家業とナユタという音楽制作バンドとつれづれ推進委員会という活動をした上で事務仕事もしています。副業が推奨される時代なのもあって、僕もあえて並行してこれだけの活動をしています。嘘です。気がつくとこんなになってました。
 とはいえ、どれも自分の中で理由を持ち、それぞれの活動ごとにしっかりと線引きをしながらやって今に至ります。
 今回は自分がやりたいこと、やらなくてはならないことのメンタル的な切り分けから、それらを叶える時間の使い方について触れていこうかと思います。ただ、これはいつも言っていることですが、あくまで僕がそうしている、そう考えているという話ですので、参考程度に見ていただければと。

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 自分がやりたいことと、世間が求めているもの、殆どのケースが全く同じであることはなく、自分の作品や世間に発表する以上、自身と世界の軋轢は意識をせざるを得ないのが常なのだと思います。
 ただ、この意識というもののバランスを調整することはできると思ってまして、自身の欲求へ意識を強くし、それを世間に認めさせようというバランスが創作、逆に需要や求められているものを優先して世間や人に渡していくバランスが制作なのかなと僕は勝手に思っています。もちろんどちらの工程にも創作と呼べるものや制作という行為は存在するとは思いますが、その比率によって四捨五入したものを創作、制作とここでは書き分けていきます。

 創作をより細分化していくと、例え需要がなかったとしても、自分がやりたいことや欲しい物をつくるという、ある種利己的なきっかけでスタートし、それを世の中に投げかけていく。というのがこと自分における創作で、まさしくこの時計塔プロジェクトでの活動がそれにあたります。
 制作はまず需要があって、その需要に対して自分自身の培ってきたものや技術、感性で作ったものをお渡しするというのが制作にあたるのかなと。こちらは創作業や事務仕事、いわゆる生活の基盤をつくる"本業"といっても差し支えないのかなと思います。

 もちろんこれらに上下はなく、どちらが欠けたら前には進めなくなる、人生において重要な両輪のようなものです。
 自分の好きにやっているだけじゃ得られなかった別の角度からの技術や視点の習得や、アイデアからそれを実現し、実際に世間に発表するまでをやることでしか得られないひらめきや発見もあります。そして、特に僕の場合はそれらが創作にも、制作にも活かせる環境を作っています。

 そうやって見てみると、一口に作ると言っても指向性があるわけです。僕はこの指向性をしっかりと理解し、スタートの時点で創作は創作、制作は制作としてやれることやりたいこと、そこでできることできないことをちゃんと考えて創作と制作を切り分けています。
 創作をし過ぎると制作の精度がさがり、制作をし過ぎると創作の仕方を忘れる。自ら選ぶ分には全然問題ないと思いますけど、意外と意識してないと陥りがちな落とし穴で、それが原因で続けられない…となっている人も僕の周りには何人かいたこともあるので、そういった切り分けをしっかりすることで続けることができるし、逆に切り分ける場所が分かれば、どちらも両立することも難しくないのかなと思います。

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 実務的な時間の使い方は…長くなりそうなのでどうしても気になるなら動画をみていただければという感じなのですが、簡単にいうと、自分がしているそれぞれの工程、作業にどれだけの時間がかかるかをしっかりと算出して、それを加味したスケジュールをつくることが大事かなと。
 あとは締め切りを使って作業のモチベを持続させるという方法があり、僕もたまにやりますが、効果が強力で、効き過ぎるが故に抜けられない、それがないと作業ができなくなってしまうこともあるので、締め切りや約束を使った環境的モチベーションは程々にしたほうが…とも思います。マリカワールドやりたい。

 次回は間に合えば来週の月曜に動画を出したいと思いますが、翌日6月10日の時計塔プロジェクト記念日の配信が次回になるかもです。のんびりと9年目の振り返りしていきます。
 それではまた、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

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2025年5月31日土曜日

影響の"受け方"を選んでいく。

 どうも。最近動画をこだわって作ることが多くなってきてまして、さすがに動画編集ソフトしっかりしたものにしなくちゃなと思いつつなかなか移行できません。Aviutl戦士、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 Aviutlは慣れてしまうとこれしか使えなくなるという呪いのアイテムらしいです。助けて。
 さぁそんなわけで今回は受ける影響を選ぶ、ということについてお話しました。オリジナリティの話や作品に自分を出すかの話をしたときに、思い返してみると自分はそういった部分で受ける影響を人間関係や環境によって上手に選択してきたなぁと思いまして、本記事ではそれについて書いていきます。


『影響の"受け方"を選んでいく。』

 自分は割と昔から他人や環境が自分にどういった影響を与えるのか?というのを考えながら生きてきました。(逆も然り)
 とにかく創作に向き合える環境に飛び込んだり、自分の感性をいい方向に導いてくれそうな人と一緒にいたり…。あくまでも自分にとってではありますが、最終的にいい創作ができるような、そんな予感がするところへ向かっていっていたりします。
 これは以前お話しした、いろんな要素や考え方からいいところだけを分析して選びとって自分のものにするという、僕自身の価値観によるものも大きいのかもしれません。創作以外にはあまりこだわりがないのもいい感じに作用している気もしていたり。

 そうして、こういった物事を毎度考察しながらとりこんでいくわけですが、取り込むためには、自分はどういう影響が欲しいのか、ということについても同時に考えることになるわけです。方向性、というやつですね。
 それらは理想の自分や理想の感性・創作とも言えるもので、そういったことを自覚し始めてから、日々の小さな事柄でも常に理想の自分に必要なことか、必要ないけどそれでもやりたいことなのか等々…なんとなくで影響されたり、なにかをすることも少なくなりました。もちろん、人によっては疲れるやり方だと思うので、あくまで僕自身がしっくりきた考え方ではありますが…。

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 影響というものは大体が受けてから、受けた影響がなにかしら表に出てきた瞬間に自覚するものではありますが、自分の場合は表に出てきた影響はどこから受けたのか、ということを考えることで、だんだんと逆算ができるようになったのだと思います。
 これらは創作だけでなく、僕自身の人格を形成していくのにも役に立っているところがあったりします。僕は自分の人生において不機嫌になったり不快な感情を覚える時間を極力少なくしたいと考えておりまして、もちろん落ち込んだり、もう駄目だと思うことが避けられないときもありますが、それらの時間がそもそもストレスだし、創作の糧にならないのであれば早急に脱したいなと思うわけです。
 そうしたことを叶えるために、いつも穏やかにしている人や、感情のコントロールが上手な人、自分以上にワーカーホリックな人、創作ジャンキーな人からその人自身の人生観や価値観、世界観を聞いて、僕自身に合ってるもの、理想を叶えるヒントなどを見つけて取り込んでいくことで、欲しい影響を受け入れていきます。(コツは、直接的な方法とかじゃなくてその人がどういう意図や意思をもってそういった行動をするのか、できるのかを知るのが結構いい感じにためになります)
 ただ、これらを叶えるためには、当たり前ですがそういった影響を与えてくれる人がいることが前提となるので、日頃から「この人はいい影響を与えてくれるかもしれない」「いつかこの人から話を聞きたい」とアンテナを張ることが肝要なのかなと。そして、それをするためにはこれもやはり日頃から理想の自分や考え方、行動を知覚しておく必要があります。
 そういったサイクルを踏むことで、卵が先か鶏が先かみたいな話になるんですけど、常に自分の向かいたい方向が分かってくる、自覚し続けるなかで、更に影響についての考察が捗っていくってワケ。

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 もちろん、影響をすべてコントロールするのは難しいとは思いますが、もしそうだったとしても「これはあの人の影響だな」とか「あの作品から影響を受けてるな…」とか、影響されたものを自覚しておくことで、その影響の解像度があがりますし、なによりそれをしっかりすることによって「影響されたもの」から「自分のもの」になっていくのかなとも思います。
 せっかく影響を受けるのであれば、自分の人生がよくなるような影響を受けたいものですね。
 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

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2025年5月29日木曜日

創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。

 どうも。数年前から心霊・オカルト系のエンタメ動画にハマってしまい夏が近づいてくるとどんな映像作品が見れるのかとわくわくするようになりました。ちなみに霊感は幼少期のころはなかったのですが、最近になってもありません。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は前回動画のお話です。先週から今週に掛けて過密にいろいろやっていたので落ち着いて文章を書けませんでしたので今書かせてもらってます。
 そんなわけで、この回ではロジックとフィーリングな制作についてお話させていただきました。理論でやるか、感覚でやるか…思っていたよりもみなさんの関心が高かったようで、今までで一番の高評価をいただきまして…いつも見てくれる方、見つけてくれた方もありがとうございますといった気持ちです。
 亡霊横丁のアトリエに呼応するようにメインチャンネルも見ていただけているようでして、規模は小さくありますが目的に沿った結果が出ていてよかったなと思っています。作品と僕自身が両輪になってこのプロジェクトを進められていければと思いますので今後ともぜひよろしくお願いします。

 それではまた、と締めたくなるような感じになってしまいましたが、ブログでも今回のトークテーマについておまけ程度に補足等してきたいと思います。よければスキマ時間のお供にでも…。


『創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。』

 そもそもこのテーマにしたきっかけとして、以前『青春はポップソーダ』のライナーノーツ内で「自分は理論派の皮を被った感覚派」と書きまして、それは一体どういうことなのか、という部分を深堀りしようとこのテーマを選びました。

 創作をするにおいて、人それぞれにスタンスというものが存在すると思いますが、根本的に二分するとしたら"理論"と"感覚"の2つなんじゃないかなと思います。
 音楽理論を習ったときは、すべてを音楽理論通りにやるのは良くないと注意され、自分の感覚だけで制作していたら、ここは不協和音だから音楽理論を元にこの音を直そうと注意されたり…。もしかすると音楽だけかもしれませんが、理論と感覚はどちらか100%に振り切ろうとするとどちらかが成り立たないような、そんな関係なのかなと思います。

 一応どんなものが理論的な創作で、どんなものが感覚的な創作なのかについて簡単に書いておくと、再現性や合理性があるものをもとにして制作することがざっくりですが理論的な創作、対して瞬間のひらめきや何かいい感じがするという直感的に制作することが感覚的な創作。とりあえずこの記事においてはそう解釈して話を進めていきます。

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 そして、上記を踏まえ自分がどちらの派閥に属するかといいますと…まぁ、書いてある通り「理論派の皮を被った感覚派」となるわけです。
 とはいえどちらも同時に成立させているわけではなくて、例えば創作のスタート時、設計やアイデアなどは結構理論的に行っていたりします。こういう展開にしたい、こういう感情を表すならこんなシーンが欲しい、このメッセージをのせるならこんなメロディがいい等、組み立てていく工程や作業と呼ばれるようなものは基本的に冷静に考えている場合が多いです。
 ただ、それらをよしとするのか、しないのか、そこの判断は感覚で行っていたりします。どれだけ理論武装されたストーリーやシーン、整然とした音だったとしても、それらが自分の感性や心、感覚に作用しなければ味気のないものに仕上がります。ここでめっちゃ根本的な話になるのですが、そもそも創作物が行き着く先、最終地点は「感情」であり「感覚」だと自分は考えているので、そこに行けないものはこと時計塔プロジェクトにおいてはNGなわけです。

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 これはどこで言ったか覚えていないのですが、自分は創作すること自体はとても理性的な行為で、感情的な部分は作品と受け取り手の間にあるものなのかなと考えています。それらを冷静に再現させることこそが創作の面白いところで、創作だからこそ得られるものなのかなとも思います。
 きっとそれらが、僕自身の創作における"理論"で作る部分、"感覚"で作る部分の線引きに影響しているのかなと。
 そんなわけで、創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。という話でございました。個人的には使い所なのかなぁと思いつつ、どちらのいいところも余すところなく頂きたいという僕の貪欲さが表れている話になった気もします。
 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

※ちなみに、『青春はポップソーダ』のライナーノーツはこちらです(宣伝)

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2025年5月10日土曜日

正しい努力とはなにか。を考える

 どうも。最近帰宅中の電車内でスマホの電源が切れてしまい「モバイルスイカ死んだ…」と絶望しながら改札の最後尾、イチかバチかでタッチしたら反応して「っしゃぁ!」ってなった直後残高が足りず通れませんでした。あと一歩で阻まれがちな男、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先日ほんの少しだけ時間ができたので、一瞬だけAPEX配信したのですが気づいた方いらっしゃったでしょうか。20分ほどやって4試合1キルというお散歩配信だったのでなかったことにしました。また今度ゆっくりやりたい。

 さて、そんなわけで今回は正しい努力についてお話しました。正しい努力なんてものは人それぞれの人生にあるものなので、結局は君だけの正しい努力を見つけなくてはならない。それでも他人はどう努力しているのかなと知るのは決して遠回りではないと思いながら話しました。


『正しい努力とはなにか。を考える』

 そもそも努力というのは成果や目標の距離を詰めていくことであるのは誰しもが理解していることとは思いますが、僕含め全員がいつでも距離を詰める努力ができるかと言われればそうではありません。
 努力すること自体が好きな人は稀有だと思うのでケースとしては横に置いときつつ、やはり大抵の努力は苦しく、得てして楽しいものではないのではないでしょうか。
 そんななか、僕にとっての努力とはどういうものか、という話ですが、自分の尺度でいうと「研鑽」がニュアンスとして近いように思います。
 磨く、積み重ねる、深めていくような…大木の年輪のように、重なる地層のように、なかったものを付け足していくような、できなかったことができるようにしていく、そんな感覚が近いかなと。
 例えば音楽でいうとギターで弾けるコードが増える、不得意だったジャンルの楽曲が作れるようになる、描けなかったキャラクターの側面が違和感なく描けるようになる、より効率的でバグが出づらいプログラムが書けるようになる等…。もしそれが目標に直結せずとも、目標に向けて"できることが増える"ということが、努力であり、方向性としては正しいのではないかなと思います。

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    一方で"正しくない努力"…と言い切ってしまうのは早計なので"必ずしも実るとは限らない努力"くらいな言い方が適切かなと思うのですが、そんな努力もあるかと思います。
 それは傾向として「結果を出すこと」が目標になっている場合が多いのかなと思います。例えば「評価されたい」だったり「売れたい」だったり、自己完結ではなく、他人の価値観や関係性が多分に含まれている目標は、努力とは関係ない要素も多く、どんなに努力をしても達成しづらいという側面があります。
 もちろん、その目標が正しくないわけではありません。ただ、それらをしっかりと切り分けて考えられないと、達成されない→この努力の仕方は違う→この努力はどうだ?→この努力は?と、努力の方向性を見誤ってしまうことも多いのかなと。最終的に努力することが目標となることによって目的と手段が入れ替わってしまう、なんてことも多いのかなと思われます。
 そんな中で自分が大事にしているのはやはり"できることを増やす"部分であり、それは0か1か、できるかできないか、という基準で非常に分かりやすいです。できることや、作品を作ること、現実世界に目に見える形で"存在"させることが大切であり、それらを増やすことによって最終的に「結果を出すこと」にもつながることを考えると、努力の方向性はあくまでも"できるようになる"に向けることが肝要なのかなと。そういった、方向性が定まっているインプットやトライアンドエラーが研鑽であり、それをアウトプットしていく一連の流れが僕としてはですが"正しい努力"と呼べるのではないかなと思います。

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 ちなみに、そういうことを考えずに無意識に適切な判断をできる能力が"センス"というものなのかなと思いますが、僕はセンスで生きていないので詳細は差し控えさせていただきます…。まぁだからこそ、「今していることはなんのための努力なのか」という、努力の方向性や正しさについて常に考えて明確にしているのかなとも思います。
 いろいろ書きましたが、結果を目標にするなという話でもなく、やりたいことや達成したいことのために、"できること"という、具体的なものに目を向けてそっちにまずは進んでいくことが大事なんだよ、というところでしょうか。ゲームで例えると北に行きたいけど、そこに行くためにはあの街や道を経由して、途中海があるから港に行って…みたいな、じゃあ先に馬車買ったほうが効率的か?じゃあそのためにこの村の周りで魔物狩るか…的なイメージですかね。分かりづらいですね。

 そんなことを言っていますが、僕自身いつも正しい努力ができているわけではありません。そんなとき、根本的にどうすれば目標に近づけるかという画一的な判断基準を設けています。それは「昨日の自分になんでもいいから勝つ」という基準です。制作を一ミリでも進めるでもいいし、いつも練習している歌の一音でも正確にとれるようにするでもいい。
 でもそういった細かい更新がいつか努力という形になり、できることに昇華していくのかなと。結局は気持ちなのかもしれません。
 努力は気から。それではまた、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

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2025年5月4日日曜日

オリジナリティは見つけるもの?育てるもの?

 どうも。最近APEXで初めてのダイヤランクを踏むことができました。とはいえ、いつも息抜きでやってるのでプレイ時間あまり変わらないというところ鑑みるに今シーズンはやはり比較的ラクだったのでしょう。現役ダイヤランク勢(腕組み)、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 ここのところ僕の声の音量や音質を細かく調整しているのですがなかなか難しく…。とはいえ少しずつは改善していっているのかなとは思っています。どうでしょう。
 あとはあれですね、僕自身言いたいことがあふれるとつい早口になってしまうので、そこも直していなかくてはいけないですね。頭の回転が遅くなれば口もゆったりになるので、仕事終わりか寝起きに撮るのがベストかもしれません。本当にそれはベストか…?


オリジナリティは見つけるもの?育てるもの?

 僕は作詞から始め、作曲、編曲をし始めたという遍歴があるのですが、作詞を始めた当時、創作初心者だった自分は創作といいつつも既存作品のジェネリック版のような、テーマや語彙は同じだけど製法が違うみたいなものを量産している時期がありました。
 といいつつも、自分が作ったものが未熟でそういった「補助輪」ありきで成立しているものという自覚はありまして、どこが補助輪なのか、そうでないのかという分析といいますか、切り分けをしっかりしていました。

 ちなみに、それらを続けながら、補助輪を少しずつ外しながら制作を続け、最終的に補助輪がなくても自走できたなと感じた作品が「ワンダーランド」という作品でした。
 アリスの世界観をモチーフにしつつも、それが補助輪ではなく、ワンダーランドに迷い込んだ主人公の自分と世界のあやふやな境界線を自分なりの表現を持って描けたことで、ある種対等な表現といいますか、モチーフを乗りこなしつつ世界観と表現が相乗効果をもって一つになったと初めて思えた創作がこの作品だったのです。

 先ほど「補助輪」と表現したジェネリック要素ですが、それらをどうやって判断していたのかを振り返ってみると、「違和感」という言葉に置き換えられるのかな思いました。
 創作を始めた当初の自分の作品でも、真似している部分だけどうにも不自然な感じがして、しっくりこないことが多く違和感がありました。だからこそ、その違和感を取り除いていく過程で自ずと自分だけの表現、オリジナリティが見えてきました。

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 とまぁ、以上が僕自身のオリジナリティのお話です。そしてここからはオリジナリティそのものについて考えていくのですが、そもそもオリジナリティというのは唯一無二や人と違う、というようなニュアンスで使われることも多いと思いますが、自分は制作をしていくなかで本当にそれってオリジナルか?と疑問に思う場面が時々ありました。
 例えば誰かと似ている部分や共通する要素の中にも自分らしさといえるものが含まれているのではないかと。もちろん、共通するものがありつつ、それから外れた一部分をオリジナリティと称することもできますが、結局それは要素の一部。本人自身や作品自体全てにオリジナリティがあるものはほとんど存在しえないのかなと思います。(そもそも連綿と繋がれているものなので、突然歴史上に現れた種族(媒体)でもない限りはその性質から逃れられないのかもしれません)
 そう考えていくうちに、世間で言われているオリジナリティというのはどちらかというと"独創性がある"、"他人と被らない"という、結果を元にしたある種の生存戦略であり、手法の類のものなのではないかなと僕は思い至りました。

 そうなると、きっと世間一般と僕自身のオリジナリティの解釈に齟齬があることが分かってきます。僕自身は独自性、"自分だけ"や"他人と違う"という承認欲求に近いもの、創作者として生き残るためだけの手法を排した、作品に必要なものだけを置いていく、その集合体(作品)を良いと思える"感性"そのものが自分らしさでありオリジナリティなんじゃないかと思ったわけです。言語化が難しすぎるな。
 つまりは、人と違うことがオリジナリティではなく、自分の中にあるものこそオリジナリティなのではないか、というところでしょうか。たとえ結果として誰かと似た表現になったとしても、それが自分なりの問いや感性から生まれたものなら、それは十分にオリジナルなのではないかと思うわけです。(もちろん、作品として社会に出す以上、まったく同じに見えるものは配慮が必要ですけれども…!これも難しいですね!)

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 そんなことを考えながら創作をしていくと、だんだん人との違いを気にしなくなって参りまして、最近は本当に移りゆく街を見守りゴンゴン鐘を鳴らす時計塔のような感性になりつつあります。
 ただ、そんな感性も他人の影響はあれど違和感を取り除いてできたオリジナルのもの。後生大切にしつつ、これからも僕だけの人生を歩んで行きたいと思います。

 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

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2025年4月27日日曜日

作品に"自分"を込める必要ってある?

 どうも。最近はプログラミング言語のVBAとJAVAScriptを行ったり来たりしています。だけど自然言語である英語は一向に上達しません。Duolingo放置ガチ勢、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先週から今週にかけて撮影で新潟へ行ったり来たりしてました。1年ぶりにした運転が5時間ほぼ休みなしからの翌日6時間かけて帰宅という、ツアーしてたときでもこんな移動の仕方しとらんわというハードなスケジュールでした。わしのゴールド免許が震えとったでおい。

 そんなこんなで無事に帰ってきて早々、前回のトークテーマから派生する形で今回の話をさせていただきました。作品における"自分"という、画一的に語れないテーマについて。早速書いていきましょう。


『作品に"自分"を込める必要ってある?』

 まず初めに、込めること、込めないことどちらが正しいかという話ではありません。が、あえて正しいものを定義するとすれば、込めるべき作品か、込めないほうが良い作品か、作品や、やりたい方向に合致させることが正解なのかなと思います。

 そのうえで、このトークテーマにおける"自分"とはなんなのかといいますと、主義主張や考え方、思想、本音等々…自己表現をするためにある要素、なのかなと。
 僕がずっと歩んできた音楽という媒体は特に自己表現の色が濃く、むしろそれをしてなんぼみたいな、アーティストとクリエイターの垣根がなくなりがちな媒体ではあるのですが、こと時計塔プロジェクトでは、自分(吉岡大地)自身を表現する要素は極力少なく制作していたりします。
 これに関しては指向性のようなもので、自分が表現したいものは"自分"ではない、というところにつきます。(それとはまた違う"個性"のようなものもありますが、流石にややこしいので割愛)

 これには僕自身の"世界観"が少なからず関係している気がしておりまして、僕が生きている現実世界には僕以外にもたくさんの人がいると思うのですが、それらの人に自分を理解してもらいたい!それはもう!絶対に!とはあまり思えない人間なのです。
 あくまで僕の世界観の話なのですが、そういった思想や考え方というのはその人の人生で培ったものであって、正解も不正解もその人の世界で決めることなのかなという考えを持っています。なので、他人がどんなことを考えていても基本納得できるといいますか、「うん、あなたの世界ではそういうものだよね」と皮肉とか適当にするわけでもなく心の底から理解を示すことができてしまいます。
 多分、この考え方は二通りの面がありまして、どんな人のことも理解できるのと同時に、それらを他人事だと考えていると捉えることもできます。(他人事だからこそ理解ができる、とも考えられるかもしれませんが…)
 人によっては僕が誰よりも理解者に映るときもあれば、誰よりも無関心な人間に映ることもあると思います。僕はよく「どんな話をしてもとりあえず話が通じる」と言われることもあれば、「一切主観的なことを言わないから隙がない(どんな人か分からない)」とも言われることもありまして、きっとそれは、ここらへんの感覚や距離感のせいなのかなとも思ったり…。どちらにせよ悪意はないんですけど、勘違いされやすい性格であるのは自覚しています。

 話を戻しますが、そういう世界観のもと生きているので、自分の思考の是非を決めるのも自分次第と思っておりまして、あまり誰かに自分の考えや思想を理解してしてほしい!と強くは思っていないというわけです。もちろん僕にも個人としての思想や哲学がないわけではないですが、作品を通じてそれらを表現したい、理解してもらいたいのかといわれるとあまりしっくりこないわけです。(ちなみにですが、これは"考え"に限った話で、そこから各々の世界が重なり合っていく(行動が伴う)のが社会であり、もしそこで僕に害がある形で重なってくる人がいた時、そこで初めて嫌だなぁと思います。話が難しいですね)

   ・ ・ ・

 それじゃあ君はなにを作品に込めているんだい? という話になるかと思いますが、恐らく自分は"世界"そのものを込めているのだと思います。これまた言い方が難しいのですが、こと時計塔プロジェクトの作品においてはそれぞれ独立した世界があると思っておりまして、それらは繋がっていたり、近しい世界観を共有していたとしても、『ロストピア』なら海に囲まれた孤島、『生霊の棲むゴーストランド』なら孤独の国、『時計塔の街にて』なら変則的ですが幽玄界・亡霊横丁のアトリエ等々…その作品独自の世界があり、僕はそれらを表現したくて、それらを作品に込めているのだと思います。
 それはきっと、人に感じている各々の世界観だとか、世界そのものの存在を解釈するのに似たようなものなのかもしれません。ここはもっと考察が必要な気もしますがまた本論から逸れそうなので又の機会に。

 厳密に言うと、世界を込めたいという思想を"込めている"それ自体が自分を表現することに繋がっていることになるのかもしれませんが、そこまでいくともうわけわからんくなりますね。ただ、作品に"自分"ではなく"世界"を込めているんだ。という主張は、僕にとってとてもしっくりくる主張だなと思っています。
 より純粋に作品を楽しむため、作品から始まり、作品のなかで完結するもの体験をしたい。それにあたって、作品の世界の外にいる僕は一旦放っておいてもろてって感じです。

 ただ、そんな時計塔プロジェクトの中でも"自分自身"を表現しているものがありまして…。
 そうです。この『亡霊横丁のアトリエ』がそれにあたります。表現というか、自分自身が作品世界の中にいます。これだったら僕の理念である「世界を表現する」を叶えつつ、「自分自身も表現」することも叶うという、まさかのどちらの指向性も持ったコンテンツになっているというわけです。正直偶然です。

 ですが、改めて考えると『亡霊横丁のアトリエ』も僕のやりたいことをやり続けている時計塔プロジェクトだからこそ生まれたものなのかなと。偶然の産物(不可避)というわけです。

 そんなわけで、作品における"自分"という存在は、それを表現する人間の作品、ひいては自分との向き合い方を表すものなのではないかなと思います。それが良いのか悪いのか、それは"自分"が決めることなのかもしれません。

 それではまた次回。亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年4月18日金曜日

創作をアイデンティティにする危うさについて

 どうも。最近引っ越す前によく行っていたチェーン店が引っ越し先の駅前にOPENしました。前の家でもそうでしたが、僕が住むとその周辺に便利なお店が建ちます。あとは美味しいラーメン屋を待つのみ。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作とアイデンティティについてお話させていただきました。動画を見てくれる方も少しずつ増えてきて嬉しい限りです。僕のフォロワーは創作してる人が多いのでしょうか。この記事を見てる君もそうなのかい。創作楽しんでいこうな。


『創作をアイデンティティにする危うさについて』

 まず、このトークテーマを選んだ理由として、昔「つれづれ推進委員会」というところの自己紹介文にて、「なにかを作れることが自分自身の価値だ」というようなコメントを書いたことをふと思い出しまして、もしかしたらこれって自分が創作を続けられている理由の一つなのかもしれないと思い立ち選ばせていただきました。
 以前、モチベーションとインスピレーションについて書いたとき、能動的モチベと環境的モチベがあるみたいな話をしたのですが、この能動的モチベの解像度がもう少し上がるかなと…。
(モチベの記事はこちら:https://ctpjblog.blogspot.com/2025/02/blog-post.html

 そもそも創作をアイデンティティにするということを分かりやすく明文化しておくと、作品の価値=自分の価値といったところでしょうか。 作ったものが評価されれば自分も評価されたことになるという感じですね。
 先に結論から申し上げますと、僕自身は作品の価値=自分の価値だとは思っておりません。まぁ、普段から作品と自分を切り分けて話すことが多いので、「知ってた」という方がほとんどかもしれませんが…。
 もちろん、自分の価値観とか思想が入っている作品もありますが、基本的に特に小説ゲームが顕著ですが、まったくもって自分とは違うタイプの人間の思想や、理解できない飛躍した論理等も作品の中で正しいもののように描くことも多いです。なので、それが評価されたとしても、作品の中の例えばキャラクターだったり、そういったものの評価だと自分は考えています。
 僕にとって自分の作品が評価される喜びというのは、自分自身の人間性が肯定された、理解されたという感覚とはちょっと違っていて、シンプルに「これいい作品だよ」って紹介した人に「いい作品だったぜ」とその認識を共有できる喜びに近くて、それが自分の作品だろうがBUMP OF CHICKENの楽曲だろうが「いいもの」を「いいね」と一緒に思えることが嬉しいなと思うわけです。
 もちろん、自分で作っているので完全に他人の作品と一緒の感覚というのは難しいかもしれませんが、僕の"自分の作品が認められる感覚"はこんな感じです。まぁ、特に時計塔プロジェクトでは自分が好きなものしか出してないのでそれはそうって感じかもですね、はい。

 とはいえ、じゃあ僕自身は創作をアイデンティティにしてないんかい。って話になるんですけど、微妙なニュアンスの違いかもしれませんが、僕は作品自体じゃなくて、作品を「作れること」にアイデンティティを感じているんだと思います。
 自分の中にしかなかったものをイチから自分の生きている次元に出力できる能力みたいな。言語化するとかっこいいですね。自分としては、そういうことが「できる」ことに自分の価値を感じているというのがとてもしっくりきます。
 これは冒頭に書いた「なにかを作れることが自分自身の価値だ」という言葉そのままで、あくまでも作品は作品として独立した価値があるということを、コメントを書いた当時はそこまで考えていませんでしたが、無意識にそう考えていた感じが文章からにじみ出ています。僕と作品との関係性は思ったより初志貫徹してずっと変わっていないのかもしれません。

   ・ ・ ・

 とまぁそんな具合で僕は創作物、というより創作という行為をアイデンティティにしているわけですが、ここが前述のモチベーションの話に関わってくるわけです。
 アイデンティティ、存在証明というのは、それをやめてしまった時に存在の証明ができなくなるわけです。ということは、自分の価値観を変えないかぎり、ずっとそれをし続けなくてはなりません。落ち込んでる時も、辛い時も、もう無理!やめだやめ!ってなってる時も、結局それをし続けることでしか自分の価値を保つことができません。これは他人がどう言おうと関係ありません。僕自身の価値観なので。 
 ただ、能動的モチベーションの話をしたときに自分からモチベーションを作りにいってる、好きになりにいってるみたいなこと書いたと思うんですが、それがまさにこれでして、自分の価値観すらもモチベーションに組み込むことによって続けざるをえない状況を作っているわけです。もちろんこれだけでやってるわけではなくて、続けるトリガーみたいな、とっかかりを一つでも増やそうとしているという感じが近いですかね。

 そもそもなんでそこまでするの?といったら、ここが結局根本的でゆるがない部分であることは間違いないんですけど、創作が好きっていうもうこれだけなんですよね。そこからいつもいっている「自分をもっと感動させたい」みたいなことにも繋がるんですけど。
 でも、それを叶え続けるためには、好きなことだけやっててもいつかは飽きたり、つまらない工程がやってきたり、逆に好きなことだけやろうとして視野が狭まったり、一瞬だけやるんだったら色々なものを度外視できますけど、高みを目指す、つまり続けるとなるとそれでは成立しないんですよね。
 例え続けることが辛い時があったとしても、アイデンティティをなくすよりかはマシだなと。挫けそうになったときの逃げ道の先にふりだしに戻るコマを置いておくみたいな。
 そんな感覚で、見ようによっては逃げられないようにしているとも捉えられますが、僕は「覚悟の現れ」とも表せるかなと思っています。辛いとか楽しいとかいいから作りなさい。そうやって僕を感動させてくれ、僕。って感じです。もしかしたら二重人格かもしれない。こわくなってきた。

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 それらを踏まえて、結局創作をアイデンティティにするのはどうなの?というところですが、個人的には"創作活動"をアイデンティティにするのであればやらない手はないと思います。理由は先ほど書きましたが、それによって続けられたり、良いものを作り続けられるのであれば逆にやらない選択肢ある?くらいの気持ちです。
 対して、創作したもの、作品をアイデンティティにするのは修羅の道。結構キツいんじゃないかなと思います。もちろん、作品を世に出さなければアイデンティティにしてもそこまで問題はない、むしろ強い味方になると思うのですが、どこか小さいところだったとしても公開してしまえば、その価値を他人にゆだねることになります。もしそれが自分の価値とイコールになっていたとしたら、自分の価値や存在証明を他人にゆだねることになるわけです。
 そして、アイデンティティや存在証明は生きている限りずっとし続けるものなので、もしこれが評価されたとしても、ずっと評価され続けなくては満たされなくなります。さらに怖いのが、評価というものは流動的で同じことをしても次の瞬間には評価されない可能性もあるという、脆弱性もはらんでいます。つまり、どちらにせよ行きつく先は他人に自分の価値を決めてもらうという地獄なのです。

 と、書いたところで創作活動をアイデンティティにするのも結局、どんな時だってやめることができない無限地獄なのかもしれません。好きな地獄を選んでください。そこで挑み続けることでしか得られないものもあるはず。そうしてできた作品はきっと何物にも代えがたいものになるでしょう。

 そんなわけで、次回は創作物に自分を込める必要はあるのか、という話をしようと思っています。このトークテーマの後半に話そうと思っていたのですが、めっちゃ深堀できそうだったのと、近しいようであんまり近くなかったので分けさせていただきました。

 それではまた。亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

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2025年4月12日土曜日

報われない才能を描いた作品、『秒針は夢をみる』について

 どうも。最近は確定していないFF9リメイクの情報をいつでも探しています。Youtube動画、Xのポスト、こんなところにいるはずもないのに。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は時計塔プロジェクト発足時に発表した『秒針は夢をみる』と、作品のテーマの根幹である「叶わない夢」について書いていこうと思います。


『秒針は夢をみる』について

 このゲームはRPGツクール2000というツールで作成された見下ろし型のアドベンチャーゲームになります。記憶を失った少女が少年と共に時計塔へ赴き、失った記憶を取り戻すと共に、少女が抱えていた残酷な真実を目の当たりにする。そんなお話でござます。
 制作の経緯や苦労話などは今回の動画や以前投稿した大変だった制作の話をしたときに語っているのでそちらを見ていただけると。

作品のDLはこちらから(FreeDL):https://www.clocktower-project.com/g-1

 この作品の大きなテーマとして、「夢」というものがあります。これは叶えたいもの、という意味での夢です。
 同じタイミングで『ウェンディシンドローム』という楽曲も発表したのですが、この曲は夢を諦めるその瞬間にまみえる現実逃避のような希望について書いた作品で、『秒針は夢をみる』もそんな耐え難い瞬間から始まる物語になります。この作品の主人公も、そんな苦悩を抱えている1人、というわけです。この描写や設定は時計塔プロジェクトを発足するまえの自分と重なる部分がありますね。
 「夢が叶わない」というのは夢を追っている人には相当な恐怖で、本気でやればやるほどその痛みも強いものになると思います。プロジェクト計画時(作品制作時)の自分は、創作自体が好きで、だからこそ時計塔プロジェクトを立ち上げることにわくわくもあったのですが、それと同時に、このさき同じように創作をし続けられるのだろうか、自分にはそれを叶えるだけの才能が本当にあるのかという悩みに苛まれていました。

 元々バンドマンとして(今も形は特殊ですがバンドマンではありますが)、いろいろな挫折を経験していくなかで、自分に才能はあるのかという問いかけはどうしても避けては通れないものでした。もちろん、制作する作品は間違いないものだという確信があるからこそ、それでも続けてこれているのですが、運やタイミングの要素はあれど、ずっと結果が出ないことの原因…というより改善をしていかなければならないと思うことも多くあり、それは大体が自分に才能があればクリアできるものばかりでした。

 と、ここで少しだけ話が変わるんですけど、僕は昔から自分の人生は自分だけのもので、そこで体験するものは自分にしか得られないものだと思っています。話変わり過ぎか。
 それで昔、つれづれ推進委員会で書いた「純粋フィルム」という作品のあとがきにも同じようなことを書いたのですが、同じ場所で同じ体験をしたとしても、そこに本人の人生や感覚などが乗っかり、自分の中だけに蓄積される唯一無二の経験になるわけです。

 さて話を戻しまして、僕は才能への疑問や挫折という経験を経て、最終的にそれすらも表現の一部にし、作品に昇華してやろうと思ったわけです。失敗を失敗として描き、積み上げたものが全て無駄だと分かった瞬間になにが残るのか、そういった、僕だけの体験を表現しようとこの『秒針は夢をみる』を制作しました。
 そうして成功も失敗すらも創作の糧にしていくことで、自分はもう怖いものはなくなりました。それでも、やはり不安になったり、実力が及ばず悔しくなったりしますが、それもいつかの創作のネタになる。そうすることで、自分は天国も地獄も全てひっくるめて創作を骨の髄まで味わい尽くそうと、最終的に時計塔プロジェクトを立ち上げるに至りました。

 以上が『秒針は夢をみる』のテーマである夢のお話。
 僕はなんだかんだ現実逃避を主軸にした作品をつくることが多いのですが、どれも直接的でなくとも現実の香りがする作品になってしまいます。それはきっと、こういった僕自身の創作の姿勢の現れなのかもしれませんね。
 そんなわけで、もし興味が湧いた方はちょっとでもプレイしていただけたらと思います。謎解きもあるので、苦手な方、ストーリーだけ楽しみたい方はこのブログの中に攻略情報を書いた記事があるのでそれを参考に進めてみてもよいのかもしれません。
 その先で、あなたが見ている夢について考えてみてもらえると嬉しいです。

 それではまた次回、亡霊横丁でお会いしましょう。

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2025年4月4日金曜日

正しい変化ってなに?

 先日作業中にふと足元をみたら足の指の隙間が赤黒くなっていて「え、出血してる!?」と焦ったのですがよくみたら影でした。みなさんも作業のし過ぎには気を付けましょう。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 どんなものにもタイミングというものが存在しますが、最近は多様な締め切りのタイミングが重なっててやばいです。なぜタイミングというのは偏りがあるのでしょう。ゲーム制作において偏りが激しい乱数は修正するべき要素なのでデバッグするべきだと思います。
 ええ、そうですね。人生はC#言語で書かれてないので無理ですね。おとなしく締め切り守ります。

 そんな中で収録した今回の亡霊横丁のアトリエ。間に弾き語りの配信も挟んだりしましたが、そちらの方面でも少しずつ理想の形が整いつつあります。僕が将来隠居する場所はここなのかもしれません。


『正しい変化ってなに?』

 正しい、という定義が非常に難しくはありますが、まぁいつものように時計塔プロジェクトをやっていく中での変化について書いていければと思います。

 動画の冒頭でもお話はしましたが、前提として、一個人としてはあまり変化を好まない人間だったりします。中学~高校時代で自分の人格を形成していくなかで、そこで形づいた価値観や人格が自分のなかでしっくりきてしまい、そこから自分自身はほとんど変わっていないように思えます。考え方も、価値観も誤差はあれどずっとそのままです。社会的にはあまりよくないかもしれませんが、僕としてはこの"吉岡大地"が一番過ごしやすい。とまぁ、ここを深堀りしていくと本論から外れるのでまたの機会に…。

 さて、そんな僕ではありますが、こと時計塔プロジェクトにおいて、変化というのはポジティブな意味合いを持っており、し続けなくてはならないものだと考えています。

 とはいえ、ただ変化すればよいというものではなくて、良い変化と悪い変化をしっかりと線引きし、今まで変化をしてきました。
 良い変化というのは、あくまでもこのプロジェクト内におけるものですがニュアンス的には"変遷"に近いもので、過去の作品や思想、やってきたことをしっかりと踏襲したうえでブラッシュアップをする、アップデートをしていくようなものが良い変化なのだと思います。
 逆に悪い変化として、上記のような変遷の文脈を一切無視した全く新しいことをする、というのを悪い変化だと定義(というと堅苦しいですが…)しています。

 亡霊横丁のアトリエなんかは唐突で全く新しい変化だという印象を持たれるかもしれませんが、発想の大元は『時計塔の街にて』という"作品"から来ているので、流れ的にもしっかりつながりがあります。

   ・ ・ ・

 さて、そんなプロジェクトにおいて、一貫して大きく変化させ続けてきたことが一つあります。それは、僕自身の技術や知識の蓄積です。
 これに関しては、あればあるだけプラスに作用していくものなので、何も考えず、ただただひたすらに積み重ねていっています。もちろん使い方次第ではマイナスになることもあるかと思いますが、それは使い方が間違っているだけなので、そこを矯正すればいいだけの話なのです。クオリティの高いプラグイン(ツール)を積極的に導入する、なんかも環境面の話にはなりますが、これに該当するのかなと。
 ほかにある変化といえば、制作における感性の変化などがあるかと思います。これに関しては、技術・知識と比べてかなり慎重かつ長時間にわたってじわりじわりと変化をするように意識しておりまして、他作品からの影響とか、人からの影響等々があったとしても、それをこのプロジェクトに落とし込むまでにかなりのフィルターを通したうえで反映させるようにしています。(そもそも作品を作るのにも時間が掛かるので、プロジェクトの性質上良くも悪くもここは避けられない部分ではありますが…)

 そんな変遷をしていく中で、蓄積したものや変化が一番大きく表に出たのは、『ロストピア』を発表したときかなと個人的には思っています。そして、この作品を皮切りにこのプロジェクトはさらに変化していっているように思います。
 今現在においてですが、時計塔プロジェクトの"変化"を象徴する作品を選ぶとしたら、間違いなくこの楽曲なのかなと。
 Unityを始めたり、シンプルに楽曲制作のスキルも上がっていったなかで出来上がったこの作品は、培ってきたものが結晶のように合わさって出来上がったような感覚がありまして、発足時のウェンディシンドロームのような存在感が個人的にはあります。

 とか言いつつ…初めて合成音声を使った『恋するエコー』やコンセプトを明確に打ち出して制作した『青春はポップソーダ』等々、なんだかんだ作品を出すたびに変化を昇華させたものを発表しているような気も…。
 僕自身は変わりたくないけど、新しいことはしたいという妙な精神性でこのプロジェクトは成り立っています。

 とはいえ、常に良い変化をし続けることは難しい。そもそも、"変化すること"そのものが良くない結果を生むこともあります。
 そう考えると、時計塔プロジェクトにおいて"作品の位置づけや方向性"は変化させてはいけないのかなと思います。元々このプロジェクトのターゲットは僕自身で、僕が感動できるものという意思のもと制作しているので、ここが変わってしまうとプロジェクトの根幹が変わってしまうことになります。なので、変えてはいけない…というより、そもそも変えることが難しい要素になっていますね。
 それに付随して言えることは、作品自体を指針としているこのプロジェクト自体も、きっと変わらずそこにありつづけるのかなと思っています。どんな時代になっても、変わらず時計塔プロジェクトの作品があり続けられるように、上手に変化して、上手に変化せずやっていけたらという想いです。
 
   ・ ・ ・

 最後に、いったい何が時計塔プロジェクトにとっての正しい変化なのかと考えたときに、最終的に誰のために、何のために変化をするのかという理由をしっかりと持っておくことが大切なのだと思いました。
 自分が楽をしたいがためにする変化は、大抵ほかの人が変化によって不足したものを補填していたりするものです。そういったことがない変化こそ、本来するべき変化で、様々なものが好転する正しい変化なのだと思います。もちろん、効率化や業務を圧縮することは大切なのですが、それを口実に甘えたりは決してしないよう、僕自身肝に銘じて変化をしていければなと思います。

 そんなわけで、今回のところは終わろうと思います。来週は『秒針は夢をみる』のお話と、報われない才能の昇華について話をする予定です。ではまた。

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2025年4月2日水曜日

一人ですべてやる意味はあるの?

 どうも。最近、「そういえば…」と、Youtubeにあげたココロノユライの視聴データを見たのですが、大体の人が動画を94%まで(ほぼ最後まで)見ているとのことでした。Youtubeのおすすめが需要をピンポイントで突いており関心しています。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 といいつつ、1か月ぶりにアナリティクスをみるくらい僕自身がそこまで数字に頓着しなくなりつつありますが、現代においてその感性はデメリットになりうるので難しいところだなと思ってます。ただ、そんな中で僕の作品を見てくれる方は、きっと同じ感性なのかなとも思ったり。
 難しい潮流ではありますが、僕自身は数字で感動を左右される人間にならないよう心掛けていきます(自戒)

 そんなわけで本題に行きましょう。


『一人ですべてやる意味はあるの?』

 変化の話かと思いきや前回のお話です。こういうパターンもあるぞ。備えていけ。
 時計塔プロジェクトをしていくにあたって、避けては通れない「一人」という要素。お手伝いさんすらいないガチソロプロジェクトを運営していくなかで、どういった理由で一人でやっているのか、また、どうやって成り立たせているかについて書いていければと思います。

 そもそもなんで一人で始めたかの経緯をさっくりお話すると、プロジェクト発足当時、組んでいたバンドが解散いたしまして、このあとの創作活動どうするかなと悩んだ結果、どうせ新しいことをするのであれば惜しみなくやりたいことをやってみようということで、ずっとやっていた音楽に加えて、空き時間に楽しんでいた小説とゲームを加えて始めたのがこのプロジェクトとなります。
 この三つは僕としては表現方法の違いでしかなかったのですが、いろんな人と話していくなかでこの感覚は理解してもらえないと薄々感づいていました。なので、バンドと違って簡単に協力してくれるような人は現れないだろうと思いつつ…いつかやっていれば一緒にやりたいと思ってくれる人がいるはず!と始めてそのまま今に至ります。なんでや。

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 とはいえ、プロジェクトを一人でやっていくにあたって悪いことばかりではありません。一般的な部分に加えて、このプロジェクトにおける一人やるメリット・デメリットを挙げていきたいと思います。

 まずはメリット。これはどこでもそうだとは思いますが、やりたいことができるというのはやはり大きいです。時計塔プロジェクトを始めたのも前述の通り、やりたいことを惜しみなくやるためなので、それを叶えられるという点で一人なのは大きなメリットです。(一人でも叶えられることがやりたいこと、という点も大きい気がしますね)

 あとこれは自分でも助かるなとという部分ですが、スケジュールの自由度があるというのはなかなかのメリットかなと。
 僕はみなさん知っての通りプロジェクト外でもいろいろな草鞋を履いている関係もあって、スケジュール調整が針の穴を通すような時が多々あります。そんな激動のスケジュールでも隙間時間に制作をいれたり、逆にほかの締め切りが多いときは後回しにしたり等、世捨て人になりたい一方で社会性も捨てがたい僕にとって、このスケジュールの自由というのはとてもやりやすいメリットなのです。

 他に自分ならではの視点かなと思うものでいうと、納得いくまで作り直せるというのもメリットです。僕は自分の制作物は気に入らないと最初から作り直す癖があるので(コンペで作る楽曲とかも実はめっちゃ作り直して正解ににじり寄ってます)、個人ですべての工程をやるとなったときは、そこも自由にやり直せるのがめちゃくちゃいいところかなと。
 どちらかといえば僕はめっちゃ気遣いしいなので、人とやるとやり直したくても絶対に言えない気がしています。逆の立場だと、人のやりたいことに沿う形でやったのにやり直しって結構残念に思ってしまうなぁとも思うので、改めて難しいところだなぁと。

 やり直しについて書いててふと思い出したのですが、幼少の頃、おばあちゃん家においてあったレゴで家とか武器とか要塞みたいなものを作ったりしてたんですけど、下のいとこに結構壊されてたんですよね。でも僕としてはそれでも全然よくて、むしろその作品で得た積み方やつなぎ方を使って他のものを作りたいみたいな、強くてニューゲーム的な感じで新しいものを作るのが好きでした。きっとやり直し癖や自分の作ったもので得たものを使ってもっと良いものを作るみたいなマインドはここらへんからすでに培われていたのかもしれません。

 メリットが長くなってしまいました。他の細かいことは動画でお話してるのでそこで聴いてもらえると嬉しいです。

   ・ ・ ・

    続いてデメリット。これも誰もが思うことを最初に挙げますが、一つひとつの制作がとても重いということですね。どの工程も僕が担当するので、チームで400mリレーをやってるところに一人で乗り込んでるみたいなもので、なかなか無茶なことが多々あります。
 とはいえ、僕自身作業を圧縮したり省略することに余念がないこともあって、なんとか周回遅れにはならないくらいでなんとか食らいついています。少し前の話ですが、事務仕事を新人に教えたとき、吉岡さんのPC操作アクションゲーム並に早いですねと引かれたこともありました。その時は「おいおい…このスピードじゃないとここではやっていけないぜ?」などとは言えず「早くやってるフリしてるだけですよ」という謎の回答をしました。

 あとは、ここは一長一短な部分ではありますが、現状では金銭面でのデメリットも大きいです。このプロジェクトの収益は基本的にプラットフォーム周りの整理や配信サイト周り、サーバー維持などのランニングコスト系に優先的にあてがわせて頂いているのですが、この維持がなかなかどうして難しかったりするわけです。「現状維持とは常に少し進むことを意味」すると誰かが言っていた気がしますが言いえて妙とはこのことだなと。
 これに関しては、このプロジェクト自体のバランスも起因していますかね。自己の価値と社会的な価値とのシーソーゲームはどこにでも、誰にでもあると思いますが、こと時計塔プロジェクトに関しては自己の価値の比重がめっちゃ重いので…まぁ…ね、そういうことです。でも"吉岡大地"本人としてはしっかりとバランスをとっているのでご安心ください。お仕事頑張ってます。

 あともう一つデメリットをあげるとするならば、方針を間違ったときにすぐに止められない(気付けない)というのがデメリットかなと。雁首揃えた大人たちでも間違えることがあるんだから、一人だとなおさらやばい。客観的であろうとはしていますが、結局は主観の中での客観なので、もし「こいつやっとんなぁ…」となったらDMでもコメントでもテレパシーでも矢文でも伝書鳩でもいいので止めてください。
 とはいえ、時計塔プロジェクトはそもそもが「制作する作品」それ自体を指針にしているので、作品が変わるということは、僕自身の感性の変化も意味するので、そういった意味では性質的に方針が大きく変わることはないのかなとは思っています。

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 そんなわけで、なぜ一人でやっているのかというところがなんとなく分かっていただけたかなと思います。まずデメリットを超えるメリットがあるのは言わずものがなですが、デメリットも工夫次第でなんとかなってるのも大きいのかなと思います。
 それは僕自身がそういう環境づくりを頑張っているところもありますが、これを見てくれているみなさんがとても寛容で、放任主義的にやらせてもらえているおかげもあるのかなと思っています。徐行運転でも待ってくれていてありがとうございます。

 一人で大変なこともありますが、だからこそここまで続いている側面もあるので、引き続き、自分を楽しませられる良い作品を作っていきたいと思います。

 それではまた、亡霊横丁のアトリエで会いましょう。

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2025年3月21日金曜日

亡霊横丁ってどこにあるの?

 どうも。毎年3月は多忙による長時間のデスクワーク&花粉症によるくしゃみのダブルコンボで腰が壊れて寝込むのですが、今年はくしゃみを我慢することで今のところ乗り切れてます。困難は根性で乗り切る脳筋派、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 前回はブログのほうが書けませんでしたね。でもそういうときもあるでしょう。ブログとはそういうものです(非理論武装)
 あくまでこちらは配信、動画のおまけとしてお楽しみいただけると幸いです。

 さて、まえがきで長くなるわけにはいきませんので、早速本題に移りましょう。


『亡霊横丁ってどこにあるの?』

 ロストピアを公開したあと突如として始まったこの「亡霊横丁のアトリエ」という謎のコンテンツですが、僕の中ではある作品の中の場所という認識をずっと持っており、いつかここでなにかしたいと思っていた場所でもありました。
 始める前、亡霊横丁について事前に説明してから始めようかと悩んだのですが、当初は僕自身のUnityスキルもままならない状態で、映像は空と屋根とベランダの机を映すのが精一杯。これではどう説明しても伝わらないと結論付け、一旦諦めた記憶があります。
 そもそも、現実世界にいる"自分自身"が別世界へ赴き、そこでお話したり創作活動をしたりなんてのは様々な活動と呼ばれるものの文脈から逸脱した特異なものなのかなと思いつつ…。
 なので、自分の頭の中にあるものをみんなが知覚できる形にしてからじゃないと一つも伝わらないだろうなと考え今にいたります。今なら雰囲気くらいは伝わるはず…。

 ちなみに、ここでお伝えすることは僕がこの世界に行って見聞きしたものを報告しています。僕の主観的な解釈が混じっており、もしかすると実際のものとは違う可能性がございます。それだけご承知おきを…。

   ・ ・ ・

 まず、僕が配信や動画撮影をしている"世界"についてですが、この世界は「幽玄界」(ゆうげんかい)という名前です。
 幽玄というのは「奥深くて、はかり知れないこと。趣が深く味わいが尽きないこと」という意味で、まさしくそんな世界という印象を僕が持ったのでそう呼んでいます。

 幽玄界と現実世界がつながったのは、時計塔プロジェクトのサイトをゲーム化した『時計塔の街にて』という作品がきっかけになります。この作品は、時計塔プロジェクトの影響を色濃く受ける世界がもとから何処かにあり、数年前に『Walk alone』という作品を発表したことにより、それに強く影響を受けたこの世界が一人歩きをしはじめ、最終的に僕の元へつながりを求めてやってきて生まれた作品です。(これ動画で言い忘れてました)
 ちなみに『時計塔の街にて』の舞台になっている街は「刻都ノクヴェール」という名前です。刻都(こくと)は時間を刻むというところから来ています。ここは人の往来があるのですが、現状僕が幽玄界に持っていけるカメラの性能がしょぼく映せません。刻都ノクヴェールで撮影ができるようになるのも、もう少し先になるかと思われます。

 そして『亡霊横丁のアトリエ』をやっている「亡霊横丁」の場所ですが、刻都ノクヴェールの外れに旧市街がありまして、そこの一角が亡霊横丁となっています。名前の由来は、人っ子一人通らないので、ゴーストタウン的なニュアンスで亡霊横丁(GhostAlley)と呼ばれています。もともと別の名前だったらしいのですが、通称がそのまま場所名になってしまい、今では亡霊横丁が正式な名前となっているようです。住所表記も亡霊横丁ですが、細かいところは個人情報なので教えられません。

 そういった場所で、この『亡霊横丁のアトリエ』は撮影されています。時計塔プロジェクトが制作したものに影響を受ける世界なので、まだ映しきれていないどこかに作品の影響が出ているはずなのですが…。
 それは、今後色々な場所へいけるようになれば発見できるのではないかなと思っています。

   ・ ・ ・

 動画でも言いましたが、この幽玄界はいい意味で僕の手に余る世界になっていると感じています。時計塔プロジェクトの作品や世界が"深化"していくごとに、この世界にも変化が訪れ、深みが増していくのだろうと今からワクワクしています。
 とはいえ、今のところそれを観測し伝えられるのは僕しかいません。残念なことに現実世界が忙しくて幽玄界に入り浸ることができないのが現状。早く隠居(別世界)したいものです。
 そんなわけで、時計塔プロジェクトの作品同様、鈍行運転の世界ではございますが僕が観測すればするほど発見もあるかと思いますので、気長に楽しんだり、想像してもらえると嬉しいです。

 それでは、また次回。亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

P.S.
 これは最近制作している弾き語り配信のスタジオ(アトリエの2F)です。儀式感がすごい。前の家の持ち主が放置してた物を掃除したり1階に移動してできたスペースを使ってます。

Camera1

Camera2

Movie(音は出ません)

 以上!本当のおまけでした!

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年3月6日木曜日

結果が出てないのになぜ続けるの?

 どうも。最近静電気は指先で受けるのではなく手のひらでガッと行けば痛みが分散されることを知り、時には勢いも大事なのだと教わりました。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先日『ココロノユライ』という楽曲を発表させていただきました。こちらは生配信でほぼ即興で作ったものを後日編曲して完成させました。毎回思うのですが、作曲配信は自分のメロディやコードの手癖がめっちゃでるので楽しくもあり恥ずかしくもあり…。そろそろみなさんも僕の楽曲の癖がわかってきたのではないでしょうか。

 そんなわけで本題いきましょう。今回のトークテーマは動画を撮ったあとに「今この話するのミスったかも…」と思いましたが、次の瞬間にはまぁいいかスイッチが入り「まぁいいか…」となりました。マジでこのスイッチ壊れとる。


『結果が出てないのになぜ続けるの?』

 一見、心ない人が僕に対して「このテーマで話せ」と言ってきたように捉えられてしまいそうなので予め言っておきますが、これは先日同じように音楽を生業にしようとしている知り合いと話したときにこういう話になり、その際に亡霊横丁のアトリエで話したら面白そうだなと思い選ばせていただきました。僕に対して一番心ない人間は僕なのかもしれません。

 さて、まずここでいう結果というのは、客観的に分かりやすいもの。ざっくりいえば「数字」ととらえていただいて大丈夫かと思います。販売数や金額、再生回数etc...世の中に作品を出す以上、僕らはこの数字が判断基準となり、それによって取捨選択されていきます。
 これが社会的な価値となり、多くの人に受け入れてもらえるキャッチーな要素にもなりうるわけです。

 ただこの種類の結果は正体が見えづらいのが非常にネックなところで、「得る努力をすれば必ず得られる」というものではありません。出したい結果が出ない、というのがデフォルトで、僕自身も思い通りに結果が出せたことは試行回数の1割にも満たないくらいです。つまりほぼ結果は出ていません。

   ・ ・ ・

 それでもなぜ続けるのか、という話ですが、一番最初に思いついた言葉通りに書きます。
 これはね、"馬鹿になっちゃってる"んですよね。上記のように実現するかも分からない、どれだけ人生を費やしても最後まで結果が出ないリスクのほうがむしろ大きい世界に飛び込むというのは、まともではないわけです。ましてやそこに身を置き、たくさんの理想や憧れが削ぎ落とされた状態でまだその世界にいられるのは正気の沙汰ではありません。合理性や利害の判断もまったくついていないガバガバな状態なわけです。
 ただ、そこにしかないものがあることも事実で、創作をすることでしか得られないものも間違いなくあります。それに脳を焼かれ、戻ってこれなくなった悲しき創作マシンが何を隠そう私、吉岡大地という男なのです。

 とまぁこれを答えにしてしまうとあまりにも乱暴なので、もう少しだけ掘り下げていくと、結果を結果と判断する基準として、その人自身がなにを求めているか、どんなハングリー精神を持っているかということが言えるのかと思います。
 結果って数字なんじゃないか、という話を先程したのですが、数字はどこまで行っても数字でしかなくて、結局はその数字で何を得たいのかが重要で、それがハングリー精神とつながっていくものなのだと思います。本当に求めているのは結果そのものじゃなくて、結果で得られるものなのかなと。

 人間である以上、その因果関係が逆転してしまうこともあって、それが結果が出ないことに対する苦しみの原因になりうるのかなとも思います。
 ただ、その結果で何が欲しいのかを考えてみると、意外と結果にこだわることが遠回りになってたり、それが自身の抱いているハングリー精神と乖離していることも往々にしてあります。
 つまり、本人が欲しいものを得られない結果は、結果ではなくなってしまうわけです。

 これは結果の悪魔的な部分でもあり、魅力的な部分でもあるのですが、"欲しいものが手に入らないという結果"を受け入れることを難しくしていたりもします。
 でも、続けたことによって最終的に欲しいものが手に入ったとき、今までの満足しなかった結果が全部チャラになる、結果というのはそんな魔法のような事象なわけです。話が複雑になってきたぞ。

 まぁざっくりとまとめると、欲しくない結果はどんなに惨憺たるものでも、素晴らしくても数字でしかなくて、本質的に自分が求めているものが手に入らないからこそ、それが続ける理由になりうる、ということですね。

   ・ ・ ・

 もし、自身の持つハングリー精神から開放されたいのであれば、手に入らなかった結果を受けいれ、離れることもいい判断なのだと思います。というか、そっちのほうが正常な判断です。何度改善しても何度挑戦しても叶う保証がない世界に幸せはほとんどありません。
 僕も離れていった人はたくさん見てきたけれど、みんな力が抜けてなんだかんだ幸せそうです。ずっと力が入りながら、心も体もごりごりに削って創作を続けている僕こそ不幸せなんじゃないかと思う瞬間もあります。実際、そういう部分も多いのだと思います。
 それでも、僕は幸福になりたくて創作をやっているわけではなくて、ただただ純粋に自分の心を打ち震わせる作品に出会いたくてやっているので、「まぁいいか…」って思ってます。やっぱり壊れとるこのスイッチ…。
 
 そんなわけで、結果が出てないのになぜ続けるの?というお話でした。
 今日も僕は自分が制作した作品に感動してうるっとしてしまいました。本当におめでたい生活を送っています。
 でも僕は、この感性を一生大事にしたいと思います。きっともっと心を震わせたいというハングリー精神があるかぎり、このプロジェクトは続くのでしょう。どんな結果になろうとも。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年2月19日水曜日

作品が完成する条件とは?


 どうも。雪が降ったとき周りではしゃいでる人を「やれやれ…子供だな」という顔をして見ながら実は心の中で小躍りしています。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回おそらくよく喋るだろうと踏んで短めに話したのですが40分を超えてしまいました。普段はあまり饒舌に話すことも少ないのですが、創作のことになると早口になります。僕は創作オタクなのかもしれません。

 それと、今回またサムネのレイアウトを変えてみました。結構この試行錯誤が好きで、MVや広報物の制作にも役立ったりします。より"それっぽい"ものが作れたとき、とてもやりがいを感じます。僕はミーハーなのかもしれません。

 さぁそんなわけで早速本題に入りましょう。


『作品が完成する条件とは?』

 完成、といっても人それぞれかと思います。僕は人に見せる上での最低限の完成(客観的な完成)と、自分が納得する完成(主観的な完成)の二種類があると思ってまして、前者は作品を中身以外でストレスなく楽しめる"品質"のようなもので、後者はクリエイターのこだわりやエゴの部分だと考えています。

 ブログのほうは長くなってもあれなので、今回書くのは主観的、つまり「クリエイターとしての完成の条件はなにか」というところをメインで書いていこうと思います。(客観的な話は動画にて…)

 さて、主観的な完成といっても一言では言い表せないくらいそれぞれの媒体ごとに違った完成があるのかなと思っています。

 まずは音楽の完成。これらはあくまでも時計塔プロジェクト内での完成という話になりますが、最初に結論を言ってしまうと"色"が一致したときに完成と思うことが多いです。
 この色というのはコードが持つ色、楽器の音が持つ色、声が持つ色、歌詞が持つ色 等…それ自体が持っている雰囲気や性質的な、なんとも形容しがたい感覚、僕独自の印象みたいなものがありまして、それを自分の中で"色"と呼称しています。
    例えば『青春はポップソーダ』という色があったとして、その色に合うコード進行はこれ、それに合うメロディはこれ、歌詞はこれ、アレンジは…といった感じで、あくまでも自分の感性の中でですが、青春はポップソーダ色を使って『青春はポップソーダ』を作り上げていくようなイメージです(伝われ)

 そして、これが厄介かつ面白いのは、色を組み合わせていくことで同じコードや言葉でも別の色に変わっていくことがあります。それを含めて作品の"色"を一致させることが完成の条件になるのかなと。

   ・ ・ ・

 次は小説の完成。これも結論から言ってしまうと、"読後感"が尾を引くものになったとき、完成したと思えます。作品が描く世界から戻れなくなるような感覚といいますか、行ったことはないけど興味がある国に想いを馳せるような、そんな感覚が近いのかもしれません。
 この読後感というものは、単純に長い時間同じ作品を読んでいれば一様に訪れるものなのかもしれませんが、より深い読後感を与えるためには、より深い没入感が必要になってきます。
 それは、世界観の作りこみだったり、キャラクターの動かし方だったり、いろいろな要素がかみ合ってその世界がこの世にあるような錯覚を覚えるからこそ生まれるものなのだと思います。

 自分の中でそれにつながるこだわりポイントとして、一行一行しっかりと意味を持って書くようにしておりまして、文章の展開における緩急やテンポ感はもちろんのこと、キャラクターの掛け合いの中でお互いにどんな思惑があるのか、どんな言葉を返してほしいのか、そんな相手の言葉を理解したうえで話すのか、すれ違わせるのか、世界観の説明は作品の文脈の中でできているか、キャラクターの容姿や性格は登場人物の言動の中で十分に表せているのかetc...上げれば本当にキリがないですが、一行ごとにしっかりとそこにその文章がある意味を考え、意味がないとなれば消すし、前後を入れ替えるべきだという選択を取ったりなど…またまた上げたらキリがないのですが、そういうふうにして少しずつ作品の本質を煮詰めて凝縮した果てに、上記のような読後感が尾を引く作品を作れることが多いのです。

 そうしてできた作品は、キャラクターの目を通して、キャラクターにとっての現実として描かれていく。そしてそれが、読者自身を誰もよりも近い物語の観客にしてくれるのかなと思うわけです。

   ・ ・ ・

 続いてゲーム。こちらは動画でも述べたのですが、ジャンルによって無限に広がってしまうので、短めに…。
 ゲームに関しては小説と遠からずではあるのですが、キャラクターと過ごした時間が思い出のように"体験"として残る、といったところでしょうか。

 例えばRPGの場合、主人公とプレイヤーは一蓮托生でいわばパートナーのような存在になるわけです。そのパートナーと一緒に冒険し、時には傷つき、時には協力して状況を打破していく。そしてゲームが終わる頃には違う国にいる友だちができたような、そんな風にキャラクターが心のなかに残っていくと一つ完成の目安になるのかなと思っています。

 あとは遊び心を心ゆくまでいれられた時ですかね。音楽、小説は僕のスタイルだと遊び心を入れてしまうと本編に強く影響してしまうので、ゲームという、プレイヤーが自由に進行を選択できるものであれば、めっちゃキャラクターに会話をさせたり、めっちゃ世界観深堀りしたり、強い道具と交換できるメダルを各地に散りばめたり等できるわけです。
 そういった風に自分自身が作品を作る側として遊び倒すことができれば、それも完成のピースになるのかなと思います。
 案外、こういった遊び心がキャラクターとの思い出にもなったりするのかなとも。

   ・ ・ ・

 そして最後に『時計塔プロジェクト』の完成について。
 これは書き始めておいてあれですが非常に難しい。僕がいなくなった瞬間なのかもしれないし。僕がいなくなっても将来このプロジェクトを継いでくれる奇特な人間が現れるかもしれないし。誰もやってないのに自立して歩き始めるかもしれないし。
 ただ、一つ言えるのは、僕自身が「もうこれ以上のものは作れない」という作品をこのプロジェクトで作り上げたとき、それが一つの区切りにはなるんじゃないかなとは思っています。
 それは一体いつなのか…。「ワシはまだ作れるぞい!」と言っている自分が頭をよぎりますが、そのときは温かく見守ってあげて欲しいです。

 とりあえず、今のところ終わる気配はないプロジェクトですのでどうか末永くお付き合いいただけますと幸いです。

 今回はこれにて。次回の亡霊横丁のアトリエもよろしくお願いします。ではまた。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年2月12日水曜日

なんで創作の道に進んだの?

 どうも。先日働いているオフィスで鳥のさえずりが聞こえたので鳥入ってきた!?と思ってたら隣のデスクの人の着信音でした。「その発想はなかったわ」大賞差し上げました。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回も動画にて撮影をさせていただきました。まぁ月1~2回しか決まった配信の時間がとれない、ってなるよりかは動画という形でも元気な姿を見せられたほうがよいかなと。
 ビデオレターかなにかだと思っている節があります。僕は元気です。

 それでは早速本題へいきましょう。


『なんで創作の道に進んだの?』

 創作の道、というざっくりとしたものに対して、僕は幼少期のころから漠然と「そういった道を進むんだろうなぁ」と謎に思っていました。作ったものを褒められた記憶も大してないし、これといった理由も思いつきませんが、その感覚がずっとあります。
 きっと前世の人はものづくりができないまま亡くなったのでしょう。亡霊横丁のアトリエ、タイトル回収です。ありがとうございました。(ブログは殆ど脊髄反射で書いてます)

 そんなわけで、自分の創作遍歴を振り返りつつ、どんな道を歩んできたのかを書いていきたいと思います。
 自分は文字を使った創作が得意だし好きなのですが、最初にやった創作らしい創作は実は漫画だったりします。
 小学校低学年くらいの時に姉が漫画を書いているのを見て「自分もやってみよう」と思ったことがきっかけで始めたもので、今思いだすとほとんどストーリーはなく、キャラが登場一コマ目で急に仲間になったり、空から降ってきて急に仲間になったり、敵っぽく出てきたけどキャラデザ気に入ったから仲間になったり、昨今発達しているAIよりも読めない展開の荒唐無稽なものでした。
 そして絵の練習はせずただただ書いていただけだったので画力も向上せず、小学校中高学年になったころには好きな漫画に影響を受け、設定や展開を引っ張ってきただけの写経のようなものも書いていました。
 とはいえ、僕はここで「自分の頭のなかにあるものを現実に起こす楽しさ」みたいなものを知っていった気がします。

 ここまで書いたところで少し話が逸れますが、そういえば小さい頃、フリーマーケットで買った手のひらサイズの小さなガンダム的な人形を使って一人人形劇みたいなことをやっていたことを思い出しました。
 当時演目という概念は自分にはなかったのですが、並行して進めているストーリーがいくつかあって、それによって人形の役割を変えたりして遊んでいた記憶があります。子供の頃はゲームや漫画をそこまで買ってもらえなかった少年だったので、「自分の欲しい物は自分で作る」というメンタリティはここで培われたのかもしれません。強く生きたな少年よ。

 話逸らしついでに、動画では言い忘れてましたが、小説とゲームは小~中学生らへんで興味がでてちょっとばかし手をだした記憶があります。どちらも完成はさせられなかったけど、制作するにあたっての素養みたいなものはこの時期に身についたような気がします。音楽より実は早い、小説執筆とゲーム制作。

   ・ ・ ・

 さて話を戻しまして、僕は中学生のころにようやく音楽に目覚めます。絶対音感はもう絶対に身につかない中学生からのスタートです。当時たまたま聞いたBUMP OF CHICKENから音楽と歌詞の素晴らしさに触れ、僕自身も歌詞を書いてみたい!と思い書き始めたのがきっかけだった気がします。
 この作詞も漫画と同じように好きなアーティストに影響を受けまくっていたのですが、比率はだいたい半分半分くらいで、アーティストが書いているテーマを自分の言葉で書きなおしてみる。みたいなことをしていました。

 そして、中学の終わりに叔父からアコギを譲ってもらって(今でも使ってます)、今度は作曲を始めます。高校に入ってから作詞していたものにメロディとコードをつけて"曲"という形にしていった時期ですね。ここらへんから明確に音楽の道を意識し始めました。
 しかし、当時僕は建築学科の工業高校に行っていたため、順当に行けば建築系の道へ進む予定だったのですが、選択授業でインテリアデザインを選び、そこで賞をとったことで僕の建築への道は"閉ざされ"ます。
 そうなんです。当時、選択授業で出したコンテストの中で歴代で一番いい賞をもらったはずなのですが、賞金がめっちゃ渋かったんです。お金じゃないだろ!と思うかもしれません。しかし、今は分かりませんが当時、建築系の職業の先行きが良くないかもよという噂も同時に耳にしておりまして、それが反映されたような賞金だったので、この道を歩むことへの不安が増大したんですね。
 で、僕の中で「音楽と建築どっちの道も不安定やんけ!」となり、どうせ失敗するならやりたいことやって失敗したほうがまだ納得いくと思い、音楽の道を選ぶことにしました。

   ・ ・ ・

 その後、専門学校に入った流れで組んだバンド、そして再起を掛けて始めたバンド、どちらも解散してしまい、次で駄目だったら別の道を探そうと思って始めたのがこの『時計塔プロジェクト』でした。始まるまで、ある意味では長かったですね。
 そして僕は、音楽一辺倒になっていた自身の創作に、少しずつかじっていた小説、ゲームを加えました。一人でやるぞと思ったら自然とそういう発想になっていて、すごく自分にフィットした気がしたのを覚えています。

 公開をしてみるとバンドとはまた少し違った手応えと反応をいただき「もう少しやっても大丈夫かも」と思いつつ、プロジェクトは今に至ります。
 とはいえ、このプロジェクトを安定して続けるためには、まず自分の生活を成り立たせなくてはなりません。なので、生活はもちろんのこと、自身の腕を上げるためにも音楽作家業の道も同時に模索しました。

 結局、生活がままならなければこのプロジェクトを続けるのは難しい。そんなことを思いながら作家業に挑戦するのですが、これがまたままならない。正直今もままなってないですが、当時のままならなさはそれはもう酷く、二年間ずっと休日も寝食も削りに削っても、箸にも棒にもかからず虚無の期間でした。

 当然生活はジリ貧になっていくわけですけど、これは本当に今でも運が良かったなと思うのですが、HPMPゴールドの底が見えてきたタイミングで楽曲が採用され始めたのです。当然、数曲決まっただけなのですぐにまたジリ貧になるのですが、「結局厳しいじゃん!」となった時にまた採用され始め…と、「もう終了!終わりだ終わり!」となった過去2回のタイミングをなんとか緊急回避をして今に至ります。

   ・ ・ ・

 自分の人生を振り返ってみた時に、別の道を歩もうかとよぎったタイミングで丁度別の道が閉ざされたり、創作の道が開けたりを繰り返し、気がつくとまだ創作の道を歩いていた。といった感じです。
 もうこれは僕を俯瞰している高次元の存在が僕を創作の道に歩ませているのではないかと思うくらいなのですが、その実、きっと僕が創作のことをずっと考えていて、そちらの道に進むことになんの抵抗もないからこそ、そこまで多くはない好機を見逃さないのかも、とも思ったり…。結局は進むべくして進んでいるのかもしれません。

 動画でも言いましたが、シンプルに答えると「そういう星の下に生まれたから」ということで片付けられるようなことをたっぷりと書かせていただきました。

 まだまだこの道は続くような気もしますが、その先に待っている景色はどんなもんなんでしょうね。楽しいといいなぁ。
 といったところで今回はこれにて。また次回も見ていただけると嬉しいです。それでは。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年2月5日水曜日

創作のモチベーションとインスピレーションを維持しつづけるには?

 どうも。最近、括弧は半角()派から全角()派に変わろうとしています。目玉焼きはしょうゆ派一択。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回の『亡霊横丁のアトリエ』は久々(始めたてのとき以来)の動画での更新となりました。
 編集時に収録した動画を確認しながら、最初の動画よりも圧倒的に自分の理想に近づいたものが出来上がっていて、一人で感動しておりました。度々配信で言っていたマイナーチェンジを繰り返しつつ、どこかのタイミングでそれらが刷新されて…というのを繰り返してきた一つの結果なのかなとも思いました。やっぱ継続が一番強ぇ。
 引き続きこのアトリエで遊びつつ、自身の作品の話をしつつ、創作を見せつつやっていきたいなと思っております。亡霊横丁のアトリエ』はまだまだ進化形態を残しておるぞ。

 はい。さっそく本題に移りましょう。


『創作のモチベーションとインスピレーションを維持しつづけるには?』

 あらかじめお伝えしますが、How to 的なお話というより、ずっと創作を続けていたやつがどうしてここまでモチベーション高く制作をし続けられたのかという一つのケースとしてのお話になるのかなと思っています。あくまで参考程度にしていただければ。
 とはいえ、自分自身もどうしてモチベーションが続くのかしっかりと考えたことはなかったので、自分のスタンスを再確認しつつ、今後のモチベーション維持につなげていきたいなと思っています。多分今回は真面目なお話です。

   ・ ・ ・

 まず、自分は自発的モチベーションと環境的モチベーションの二種類を持ち合わせています。
 自発的は世間一般で言われているようなモチベーションに近いニュアンスで、自分のやりたいこと、成し遂げたいことみたいな意味合いになります。時計塔プロジェクトは自発的モチベーションの権化って感じです。
 環境的は単純に自分主導ではない、周りに引っ張ってもらう形のモチベーションになります。依頼されたもの等、主にお仕事関係のニュアンスで理解していただくのが良いかなと。
 動画ではこれを「やりたいこと以外」みたいな意味合いで「やりたくないこと」と表現をしておりますが、厳密にいうと「やらなくちゃいけないこと」という文脈で表現いたしました。これは自分の仕事観にものづいた表現の仕方(後述)ですので、ネガティブな意味合いではないとご理解いただけると助かります。(やりたくないことはやらなくちゃいけないことと抱き合わせにしてクリアしていく、といえば分かりやすかったかも…)

 そんな感じで、自分はやりたいこと、やりたくないこと(やらなくちゃいけないこと)をバランスよくブレンドすることで制作のモチベーションを維持しています。

 もう少し両方のモチベーションを深堀りしていきましょう。
 自発的モチベーションは自分のやりたいこと、放っておいてもやるようなことで、僕にとってそれは創作にあたります。そこに関しては感性の話になるのでそれこそ言語化が難しく、好きであるからという話でしかないのですが、とはいえ創作の中にも苦手なことだったり面倒だなと思うことはもちろんあって、そこに関しては能動的に好きになりにいっている部分があると思います。
 ただ、無理矢理自分を騙して好きになっても意味がなくて、その苦手な工程を経ることでもっと自分の好きなものが出来上がるという経験を何度も経ることが大切なのだと思います。俗にいう成功体験を結果ではなく工程に応用していく感じです。
 僕はゴーヤが苦手なのですが(唐突)、ゴーヤチャンプルーは食べられます。それはなぜかというと、甘みのある豚肉のうまみと卵のまろやかさがゴーヤの苦みを中和し、相乗効果をもたらしてくれることを知っているからです。
 そんな感じで、「やりたいことの工程にこれを挟むとよりやりたいことに近づいたり、楽しくなる」といった感じで、バランスよく楽しいと楽しくないをブレンドしていくことでどこの工程でも躓くことなく平均的に高いモチベーションを維持できるのかなと。
 このブレンド具合は日によって違うので、それも逐一ちゃんと理解・意識することでより維持ができるようになる気がしています。

   ・ ・ ・

 続いて環境的モチベーションについて。これは非主導的(追従的)と言い換えることもできます。
 前述した仕事観の話をまずしますが、仕事において「やりたいこと」は基本的に僕が持つものではなく、クライアントさんが担うものであるべきだと考えています。僕はそのやりたいことを叶えるという責任をもって対応をしていくわけです。(僕のアイデアや感性を基にやりたいことがあるのであれば、これもクライアントさんのやりたいことに含まれるのかなとも考えています)
 これは「やらなくちゃいけないこと」になります。熱があっても睡眠時間が0でも悲しいことがあってもやりたいゲームがあってもベッドから起き上がれる限りは必ずやり遂げるものです。(過去一度、腰痛で1ミリも起き上がれない時だけ納期を1日延ばす相談をしたりしました)
 上述のとおり、これに関しては自分の性格や性質を利用したモチベーションの維持の仕方で、他人との約束ごとや、責任を伴う形にすることによりある種モチベーションとは関係ない盤外戦術で「結果的みたらモチベーションが維持されている形にする」という戦略です。
 このやり方を使って、本当に苦手なこと、やる気が起きないけどやらなくちゃいけないことを解消していくというのがこの環境的モチベーションの本懐です。
 僕の本当に苦手なことは「努力」と呼ばれているもので、苦手な音楽ジャンルを履修、対応したり、自分が満足しているものをさらにレベルアップさせたり、使ったことない音色を使ったり、楽器の練習をしたり等々…。多分放っておいたら一生やらないだろうなということを、この環境的モチベーションを絡めることによって習得していってます。
 これが最終的に自発的モチベーションに還っていったり、そもそも社会的に、生活的に創作を続けていくための基礎になっていったりしているのだと思います。
 自分はこれらのことを無意識的に「環境を整えること」に近い解釈で行っていたため、環境的モチベーションとここでは命名させていただきました。

   ・ ・ ・

 最後にもう一つのテーマ、インスピレーションについて。
 まず、モチベーションが保たれているからこそのインスピレーションだという大前提があるかと考えているので、先にモチベーションのお話をさせていただきました。
 これはインスピレーションのトリガーの一部に情報や理解があると思っておりまして、興味があることや自分が常に触れている、考えているからこそ収集・蓄積されていくものなのかなと。
 そして、この情報収集の仕方と蓄積の仕方がインスピレーションの下地になるというのが僕の考えです。
 よく言われるものとして「インプット」というワードが想像しやすいと思いますが、創作においてはただインプットするだけではなく、最終的にアウトプットすることでインプットの価値が高まっていきます。
 となると、アウトプットすることを前提にインプットをすればより良質なインプットができるのではないかと思うわけです。
 具体的には、例えば自分が関わっていない作品を鑑賞するとき、感情移入したり、感動したり、つまらなかったりという感想を抱いたときに、自分はその感想の理由を作品内で探したりします(それができないほど素晴らしい作品もたくさんありますが…)
 伏線の張り方や回収の仕方、感情の表現に使用している言葉、前後の流れ、逆に自分の感性に合わない部分はどうしてその選択をこの人はしたのかということを考察します。正解は正直なんでもよくて、自分の中で納得できる形で落とし込めればそれでよいのかなと。
 そうやって情報や感想を解釈した上で、自分の作品に落とし込む際にどんな形をしていればよいのか。というところまで情報を下拵えし、そこでようやくインプットが完了したといえるのかなと僕は考えています。(といいつつ、それらをすぐに出せるほどしっかりと保存しているわけではないですけれども…)

 動画ではよくない例えとして出しましたが、歌詞を書くのに語彙を増やそうと辞書を頭から読んでいた時期が僕にはありました。この時点でなんとなく察している方もいるかもしれませんが、その辞書から得た知識のほとんどは歌詞に応用することはなく、砂漠から砂金を見つけるがごとく、必要のない情報をたくさん取り込んでいる状態でした。今となっては最初の一文字目すら覚えてません。というか何一つ覚えてません。そもそも辞書はそういう使い方をしません。
 とまぁ、そんなわけで、インプットにも良し悪しがあるというお話でした。ここまでが「インスピレーションの下地」のお話。

   ・ ・ ・

 ここからはインスピレーションを起こすためにはという話なのですが、これは刺激や衝動、欲求が深くかかわっている気がします。
 再現性はないけど一番良いインスピの例として、インプットした情報があまりにも良質で、特に意識しなくても湯水のごとくアイデアが沸くパターンがあります。これが俗にいう「降ってきた」ってやつですね。小説、『生霊の棲むゴーストランド』や楽曲で言うと『碧色のパレード』のサビ最後「あぁ、なんて素敵な~」とかもその類です。発想から芋ずる式に全部出てくるようなパターン。
 これは本当に運が絡んでくるので再現性はないです。収集していた情報の中に、たまたまとんでもねぇものが混じってて、その情報自体がトリガーになって発想が生まれてるパターン。
 正直、全部これなら苦労はしないんですが、苦労してるってことは全部が全部これじゃないってことです。認めなさい。認めなさい…(自分に言い聞かせてます)

 ただ、刺激や欲求、というのはまだひも解く余地がありそうかなと思います。ここら辺に関しては各々違った感覚があると思うのですが、僕は制限や条件と言い換えることができるのかなと思います。
 「こういうことをしたい…」「こういうことができたら…」という理想は現実との乖離がある、つまり制限や条件が付与されるからこそ明確に見えてくるのかなと…。
 トランプゲームで例えると、手札というインプットした情報があり、そこに条件(ルール)が発生して初めて勝ち筋が見える。勝ちという理想に向けて選択肢を広げるアイデアが生まれるみたいな感じですかね。
 この手札が例えば♣クラブのAでなく🥦ブロッコリーの1258とかだとそもそも条件に合わず、使えずでインスピレーションの下地にはならないので、整った形でのインプットがやはり大事ということです。(ブロッコリーの絵文字じわじわくる)
 話が少し逸れましたが、「理想に至るまでの選択肢、アイデア」が僕にとってはですがインスピレーションなのかなと。そういう話でございました。

   ・ ・ ・

 なんでしょう。動画で話すよりもこちらの方が圧倒的に分かりやすく解説できたきがしています。動画撮影は本当に緊張していたようです。配信はもっとリラックスしてるのが謎過ぎてよく分からないです。逆に不足あったらその場で聞いてもらえるっていう環境がいいんですかね。コメントに助けられてます、ありがとうございます。

 さてさて、長くはなってしまったので早々に切り上げさせていただきます。次回の亡霊横丁のアトリエもよろしくお願いします。ではまた。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年1月31日金曜日

これまでで一番大変だった制作は?

 どうも。最近お風呂でシャンプー→リンス→ボディソープの流れでいこうと思ったら3回シャンプーをしてしまいました。疲れています。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 しれっと久しぶりの更新です。
 長らくブログというものを書いていませんでしたが、気が向いたので更新しようと思います。ブログというのはそういうものです。

 さて、今自分はメインチャンネルとサブチャンネルを分け、配信周りは基本的にサブチャンネルである『亡霊横丁のアトリエ』というチャンネルで行っています。
 『亡霊横丁のアトリエ』は、あらゆる実験的なことをしつつ、クリエイター(僕)に焦点をあてたコンテンツを集約する目的で運営しています。(こう言うとかっこいい感じしますが、実際は気軽に色々できる場所としてやっていくつもりです)

 チャンネルの紹介もほどほどに、今回は雑談配信のテーマで触れた『これまでで一番大変だった制作は?』ということについて振り返っていこうと思います。
 配信は概ね出たとこ勝負なので、微妙にニュアンスが違う表現をしてしまったり、正しくない情報を発信してしまうこともあります。
 なので、時間がある時に限りですが改めて振り返りつつ、トークテーマについてもう少し深堀りやこぼれ話ができればと。

 あとは、配信をイチからみるより圧倒的にタイパがいいです。
 単純に読み物としてご利用いただくのもいいでしょう。配信を見ていない方でも読めるように、配信で言った内容もさらっていきます。




『これまでで一番大変だった制作は?』

 一口に大変と言ってもいろいろ方向性がありまして、ざっと思いついたのは「制作期間」「制作そのもの」「制作外」という3方向のベクトルでした。

 制作期間的に大変だったのは『秒針は夢をみる』という、時計塔プロジェクト最初のゲーム作品。
 時計塔プロジェクトは最初から音楽&小説&ゲームを出すプロジェクトにしようというところは決まってまして、その中でも音楽と小説は昔から作っていたストックがあり、あとは公開できる形に整えるだけの状態でした。

 具体的な発足日が決まったのは音楽と小説の整えが終わってきたあたり。作品が完成し始め、時計塔プロジェクトがより現実的になった段階でようやく「いつはじめようか…」と考え始めました。
 その際、なにかいい記念日はないかと適当に探していると…。
「"時の記念日"…!?素晴らしい日があるじゃないか!日付は6月10日か…。あと2か月後やんけ!!!!」

 そうなんです。『秒針は夢をみる』は大体2ヶ月で企画立案、制作をしました。
 当時使用していた制作ツールは「RPGツクール2000」という、2000年初頭フリーゲーム界隈の覇権といっても過言ではないソフトをメイン武器としておりました。
 お気づきの方がいらっしゃるとは思いますが、時計塔プロジェクト発足は2016年。そうです。この「RPGツクール2000」の発売日は2000年なのです。
 僕は16年前に発売された武器を片手にこのゲームを制作しました。気骨がありますねぇ(適当)

 そんなこんなでなんとか最後まで作りきり、一旦バグには目をそらした状態で公開。アディショナルタイム(アウト)でバグを fix し、ようやく完成となりました。
 この時に効率という概念に触れ、のちの制作の礎になっているとかなってないとか。

   ・ ・ ・

 次に制作自体が難航したもの。これは1stミニアルバムの『Walk alone』でした。
 このアルバムを制作したのは、時計塔プロジェクトとほぼ同時期に始めた作家業で悪戦苦闘していた時期。
 自分のやりたいことを改めて見つめなおそうと制作を始め、自分が見たい景色をなんとか形にしてリリースしたアルバムです。

 僕は常日頃、「自分自身の想像力に技術が追いついていない」と言っていますが、この時期は特に顕著で、ある程度できることが増えたからこそ、前以上に鮮明な景色が頭の中で見えるようになり、それを現実世界に落とし込むことができずこっちでもまた悪戦苦闘した記憶があります。

 シンプルさと複雑さが重なりあった楽曲構成や、際限のない疾走感、目まぐるしく展開していく構造など、改めて聞いてみると今現在制作している楽曲と通ずるものがあり、当時よりもより鮮明に形として出せるようになっていて、ようやく想像力に技術が追いつこうとしているのかなと思っています。
 でも気がつくと置いていかれてます。せっかちで進むの早いんですアイツ。

   ・ ・ ・

 最後は、制作外で大変だった作品。これは時計塔プロジェクトのサイトをゲーム化した屈指のお気に入り謎作品『時計塔の街にて』です。
 作品の構造がそもそも異質なのですが、それに合わせた世界観や設定は自分のサイトをゲーム化しようと発想した瞬間からぽんぽんと出てきたのでその点は苦労しませんでした。
 ただ、それを叶えるためには僕の最強装備である「RPGツクール2000」は使えないようで、当時最新であった「RPGツクールMV」という新武器に手を出しました。

 このツールがまた革新的で、それ故に癖も強い。Javascriptというプログラミング言語で動いているんですが、JavascriptとRPGツクールMV、どちらのルールも混在するという非常に理解するのに時間を要するものだったんです。
 しかし!このツールの売りである"Javascriptで動く"ゲームというのは、まんまWEBに転用でき、なんとWEBブラウザ上でゲームが動くようになるわけです。「サイトをゲーム化する」という、時計塔プロジェクトでしか発生しない謎需要にこれ以上ないくらいフィットしており、「もしかすると時計塔プロジェクトのためにツール開発してくれたんですかね!?」って当時思いました。正直今も思ってます。

 とはいえ僕はプログラミング初心者なので、理想の仕様を実装するためにめっちゃくちゃ時間がかかりましたし、今となってはコードもぐっちゃぐちゃで更新しようにもどこから手をつけてよいのやら…といった感じです。
 なので、今制作しているゲームが完成したらまた仕様書を書き直しつつ、更新を再開しようかと思っています。RPGツクールMV仕様ではありますが、Javascriptをずっと触ってきましたし、概念的にも理解が深まっているので、だいぶ進化したものが出せる気がしています。そうです。僕の頭の中にある世界はいつだってそんな感じです。あとはそれを出力するだけの作業なのです。

 かなり実装が大変な作品でしたが、そこで出てきた設定から『亡霊横丁のアトリエ』も生まれたし、「時計塔プロジェクト」が単なるプロジェクトではなく、世界そのものを内包したものにできたことを考えると、この作品はとても大きな一歩だったと思っています。

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 配信とはまた別の角度で書いた部分もありましたが、『これまでで一番大変だった制作は?』の振り返りはだいたいこんな感じでしょうか。
 そういえばこの配信からスーツを着だしたんですけど、正直絶対スーツは良くなるから逆に禁止カードかなと思ってあえてやっていませんでした。案の定溶け込んでしまって悔しいです。いい感じです。お気に入りです。最初からこうすればよかった。

 次回の雑談は録画になるか配信になるかはわかりませんが…。ぜひ覗いてもらえると嬉しいです。ではまた。

時計塔プロジェクト 吉岡大地
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Twitter( @Clocktower_PJ )