2025年5月10日土曜日

正しい努力とはなにか。を考える

 どうも。最近帰宅中の電車内でスマホの電源が切れてしまい「モバイルスイカ死んだ…」と絶望しながら改札の最後尾、イチかバチかでタッチしたら反応して「っしゃぁ!」ってなった直後残高が足りず通れませんでした。あと一歩で阻まれがちな男、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先日ほんの少しだけ時間ができたので、一瞬だけAPEX配信したのですが気づいた方いらっしゃったでしょうか。20分ほどやって4試合1キルというお散歩配信だったのでなかったことにしました。また今度ゆっくりやりたい。

 さて、そんなわけで今回は正しい努力についてお話しました。正しい努力なんてものは人それぞれの人生にあるものなので、結局は君だけの正しい努力を見つけなくてはならない。それでも他人はどう努力しているのかなと知るのは決して遠回りではないと思いながら話しました。


『正しい努力とはなにか。を考える』

 そもそも努力というのは成果や目標の距離を詰めていくことであるのは誰しもが理解していることとは思いますが、僕含め全員がいつでも距離を詰める努力ができるかと言われればそうではありません。
 努力すること自体が好きな人は稀有だと思うのでケースとしては横に置いときつつ、やはり大抵の努力は苦しく、得てして楽しいものではないのではないでしょうか。
 そんななか、僕にとっての努力とはどういうものか、という話ですが、自分の尺度でいうと「研鑽」がニュアンスとして近いように思います。
 磨く、積み重ねる、深めていくような…大木の年輪のように、重なる地層のように、なかったものを付け足していくような、できなかったことができるようにしていく、そんな感覚が近いかなと。
 例えば音楽でいうとギターで弾けるコードが増える、不得意だったジャンルの楽曲が作れるようになる、描けなかったキャラクターの側面が違和感なく描けるようになる、より効率的でバグが出づらいプログラムが書けるようになる等…。もしそれが目標に直結せずとも、目標に向けて"できることが増える"ということが、努力であり、方向性としては正しいのではないかなと思います。

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    一方で"正しくない努力"…と言い切ってしまうのは早計なので"必ずしも実るとは限らない努力"くらいな言い方が適切かなと思うのですが、そんな努力もあるかと思います。
 それは傾向として「結果を出すこと」が目標になっている場合が多いのかなと思います。例えば「評価されたい」だったり「売れたい」だったり、自己完結ではなく、他人の価値観や関係性が多分に含まれている目標は、努力とは関係ない要素も多く、どんなに努力をしても達成しづらいという側面があります。
 もちろん、その目標が正しくないわけではありません。ただ、それらをしっかりと切り分けて考えられないと、達成されない→この努力の仕方は違う→この努力はどうだ?→この努力は?と、努力の方向性を見誤ってしまうことも多いのかなと。最終的に努力することが目標となることによって目的と手段が入れ替わってしまう、なんてことも多いのかなと思われます。
 そんな中で自分が大事にしているのはやはり"できることを増やす"部分であり、それは0か1か、できるかできないか、という基準で非常に分かりやすいです。できることや、作品を作ること、現実世界に目に見える形で"存在"させることが大切であり、それらを増やすことによって最終的に「結果を出すこと」にもつながることを考えると、努力の方向性はあくまでも"できるようになる"に向けることが肝要なのかなと。そういった、方向性が定まっているインプットやトライアンドエラーが研鑽であり、それをアウトプットしていく一連の流れが僕としてはですが"正しい努力"と呼べるのではないかなと思います。

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 ちなみに、そういうことを考えずに無意識に適切な判断をできる能力が"センス"というものなのかなと思いますが、僕はセンスで生きていないので詳細は差し控えさせていただきます…。まぁだからこそ、「今していることはなんのための努力なのか」という、努力の方向性や正しさについて常に考えて明確にしているのかなとも思います。
 いろいろ書きましたが、結果を目標にするなという話でもなく、やりたいことや達成したいことのために、"できること"という、具体的なものに目を向けてそっちにまずは進んでいくことが大事なんだよ、というところでしょうか。ゲームで例えると北に行きたいけど、そこに行くためにはあの街や道を経由して、途中海があるから港に行って…みたいな、じゃあ先に馬車買ったほうが効率的か?じゃあそのためにこの村の周りで魔物狩るか…的なイメージですかね。分かりづらいですね。

 そんなことを言っていますが、僕自身いつも正しい努力ができているわけではありません。そんなとき、根本的にどうすれば目標に近づけるかという画一的な判断基準を設けています。それは「昨日の自分になんでもいいから勝つ」という基準です。制作を一ミリでも進めるでもいいし、いつも練習している歌の一音でも正確にとれるようにするでもいい。
 でもそういった細かい更新がいつか努力という形になり、できることに昇華していくのかなと。結局は気持ちなのかもしれません。
 努力は気から。それではまた、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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