2025年4月18日金曜日

創作をアイデンティティにする危うさについて

 どうも。最近引っ越す前によく行っていたチェーン店が引っ越し先の駅前にOPENしました。前の家でもそうでしたが、僕が住むとその周辺に便利なお店が建ちます。あとは美味しいラーメン屋を待つのみ。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作とアイデンティティについてお話させていただきました。動画を見てくれる方も少しずつ増えてきて嬉しい限りです。僕のフォロワーは創作してる人が多いのでしょうか。この記事を見てる君もそうなのかい。創作楽しんでいこうな。


『創作をアイデンティティにする危うさについて』

 まず、このトークテーマを選んだ理由として、昔「つれづれ推進委員会」というところの自己紹介文にて、「なにかを作れることが自分自身の価値だ」というようなコメントを書いたことをふと思い出しまして、もしかしたらこれって自分が創作を続けられている理由の一つなのかもしれないと思い立ち選ばせていただきました。
 以前、モチベーションとインスピレーションについて書いたとき、能動的モチベと環境的モチベがあるみたいな話をしたのですが、この能動的モチベの解像度がもう少し上がるかなと…。
(モチベの記事はこちら:https://ctpjblog.blogspot.com/2025/02/blog-post.html

 そもそも創作をアイデンティティにするということを分かりやすく明文化しておくと、作品の価値=自分の価値といったところでしょうか。 作ったものが評価されれば自分も評価されたことになるという感じですね。
 先に結論から申し上げますと、僕自身は作品の価値=自分の価値だとは思っておりません。まぁ、普段から作品と自分を切り分けて話すことが多いので、「知ってた」という方がほとんどかもしれませんが…。
 もちろん、自分の価値観とか思想が入っている作品もありますが、基本的に特に小説ゲームが顕著ですが、まったくもって自分とは違うタイプの人間の思想や、理解できない飛躍した論理等も作品の中で正しいもののように描くことも多いです。なので、それが評価されたとしても、作品の中の例えばキャラクターだったり、そういったものの評価だと自分は考えています。
 僕にとって自分の作品が評価される喜びというのは、自分自身の人間性が肯定された、理解されたという感覚とはちょっと違っていて、シンプルに「これいい作品だよ」って紹介した人に「いい作品だったぜ」とその認識を共有できる喜びに近くて、それが自分の作品だろうがBUMP OF CHICKENの楽曲だろうが「いいもの」を「いいね」と一緒に思えることが嬉しいなと思うわけです。
 もちろん、自分で作っているので完全に他人の作品と一緒の感覚というのは難しいかもしれませんが、僕の"自分の作品が認められる感覚"はこんな感じです。まぁ、特に時計塔プロジェクトでは自分が好きなものしか出してないのでそれはそうって感じかもですね、はい。

 とはいえ、じゃあ僕自身は創作をアイデンティティにしてないんかい。って話になるんですけど、微妙なニュアンスの違いかもしれませんが、僕は作品自体じゃなくて、作品を「作れること」にアイデンティティを感じているんだと思います。
 自分の中にしかなかったものをイチから自分の生きている次元に出力できる能力みたいな。言語化するとかっこいいですね。自分としては、そういうことが「できる」ことに自分の価値を感じているというのがとてもしっくりきます。
 これは冒頭に書いた「なにかを作れることが自分自身の価値だ」という言葉そのままで、あくまでも作品は作品として独立した価値があるということを、コメントを書いた当時はそこまで考えていませんでしたが、無意識にそう考えていた感じが文章からにじみ出ています。僕と作品との関係性は思ったより初志貫徹してずっと変わっていないのかもしれません。

   ・ ・ ・

 とまぁそんな具合で僕は創作物、というより創作という行為をアイデンティティにしているわけですが、ここが前述のモチベーションの話に関わってくるわけです。
 アイデンティティ、存在証明というのは、それをやめてしまった時に存在の証明ができなくなるわけです。ということは、自分の価値観を変えないかぎり、ずっとそれをし続けなくてはなりません。落ち込んでる時も、辛い時も、もう無理!やめだやめ!ってなってる時も、結局それをし続けることでしか自分の価値を保つことができません。これは他人がどう言おうと関係ありません。僕自身の価値観なので。 
 ただ、能動的モチベーションの話をしたときに自分からモチベーションを作りにいってる、好きになりにいってるみたいなこと書いたと思うんですが、それがまさにこれでして、自分の価値観すらもモチベーションに組み込むことによって続けざるをえない状況を作っているわけです。もちろんこれだけでやってるわけではなくて、続けるトリガーみたいな、とっかかりを一つでも増やそうとしているという感じが近いですかね。

 そもそもなんでそこまでするの?といったら、ここが結局根本的でゆるがない部分であることは間違いないんですけど、創作が好きっていうもうこれだけなんですよね。そこからいつもいっている「自分をもっと感動させたい」みたいなことにも繋がるんですけど。
 でも、それを叶え続けるためには、好きなことだけやっててもいつかは飽きたり、つまらない工程がやってきたり、逆に好きなことだけやろうとして視野が狭まったり、一瞬だけやるんだったら色々なものを度外視できますけど、高みを目指す、つまり続けるとなるとそれでは成立しないんですよね。
 例え続けることが辛い時があったとしても、アイデンティティをなくすよりかはマシだなと。挫けそうになったときの逃げ道の先にふりだしに戻るコマを置いておくみたいな。
 そんな感覚で、見ようによっては逃げられないようにしているとも捉えられますが、僕は「覚悟の現れ」とも表せるかなと思っています。辛いとか楽しいとかいいから作りなさい。そうやって僕を感動させてくれ、僕。って感じです。もしかしたら二重人格かもしれない。こわくなってきた。

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 それらを踏まえて、結局創作をアイデンティティにするのはどうなの?というところですが、個人的には"創作活動"をアイデンティティにするのであればやらない手はないと思います。理由は先ほど書きましたが、それによって続けられたり、良いものを作り続けられるのであれば逆にやらない選択肢ある?くらいの気持ちです。
 対して、創作したもの、作品をアイデンティティにするのは修羅の道。結構キツいんじゃないかなと思います。もちろん、作品を世に出さなければアイデンティティにしてもそこまで問題はない、むしろ強い味方になると思うのですが、どこか小さいところだったとしても公開してしまえば、その価値を他人にゆだねることになります。もしそれが自分の価値とイコールになっていたとしたら、自分の価値や存在証明を他人にゆだねることになるわけです。
 そして、アイデンティティや存在証明は生きている限りずっとし続けるものなので、もしこれが評価されたとしても、ずっと評価され続けなくては満たされなくなります。さらに怖いのが、評価というものは流動的で同じことをしても次の瞬間には評価されない可能性もあるという、脆弱性もはらんでいます。つまり、どちらにせよ行きつく先は他人に自分の価値を決めてもらうという地獄なのです。

 と、書いたところで創作活動をアイデンティティにするのも結局、どんな時だってやめることができない無限地獄なのかもしれません。好きな地獄を選んでください。そこで挑み続けることでしか得られないものもあるはず。そうしてできた作品はきっと何物にも代えがたいものになるでしょう。

 そんなわけで、次回は創作物に自分を込める必要はあるのか、という話をしようと思っています。このトークテーマの後半に話そうと思っていたのですが、めっちゃ深堀できそうだったのと、近しいようであんまり近くなかったので分けさせていただきました。

 それではまた。亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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