2025年4月27日日曜日

作品に"自分"を込める必要ってある?

 どうも。最近はプログラミング言語のVBAとJAVAScriptを行ったり来たりしています。だけど自然言語である英語は一向に上達しません。Duolingo放置ガチ勢、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先週から今週にかけて撮影で新潟へ行ったり来たりしてました。1年ぶりにした運転が5時間ほぼ休みなしからの翌日6時間かけて帰宅という、ツアーしてたときでもこんな移動の仕方しとらんわというハードなスケジュールでした。わしのゴールド免許が震えとったでおい。

 そんなこんなで無事に帰ってきて早々、前回のトークテーマから派生する形で今回の話をさせていただきました。作品における"自分"という、画一的に語れないテーマについて。早速書いていきましょう。


『作品に"自分"を込める必要ってある?』

 まず初めに、込めること、込めないことどちらが正しいかという話ではありません。が、あえて正しいものを定義するとすれば、込めるべき作品か、込めないほうが良い作品か、作品や、やりたい方向に合致させることが正解なのかなと思います。

 そのうえで、このトークテーマにおける"自分"とはなんなのかといいますと、主義主張や考え方、思想、本音等々…自己表現をするためにある要素、なのかなと。
 僕がずっと歩んできた音楽という媒体は特に自己表現の色が濃く、むしろそれをしてなんぼみたいな、アーティストとクリエイターの垣根がなくなりがちな媒体ではあるのですが、こと時計塔プロジェクトでは、自分(吉岡大地)自身を表現する要素は極力少なく制作していたりします。
 これに関しては指向性のようなもので、自分が表現したいものは"自分"ではない、というところにつきます。(それとはまた違う"個性"のようなものもありますが、流石にややこしいので割愛)

 これには僕自身の"世界観"が少なからず関係している気がしておりまして、僕が生きている現実世界には僕以外にもたくさんの人がいると思うのですが、それらの人に自分を理解してもらいたい!それはもう!絶対に!とはあまり思えない人間なのです。
 あくまで僕の世界観の話なのですが、そういった思想や考え方というのはその人の人生で培ったものであって、正解も不正解もその人の世界で決めることなのかなという考えを持っています。なので、他人がどんなことを考えていても基本納得できるといいますか、「うん、あなたの世界ではそういうものだよね」と皮肉とか適当にするわけでもなく心の底から理解を示すことができてしまいます。
 多分、この考え方は二通りの面がありまして、どんな人のことも理解できるのと同時に、それらを他人事だと考えていると捉えることもできます。(他人事だからこそ理解ができる、とも考えられるかもしれませんが…)
 人によっては僕が誰よりも理解者に映るときもあれば、誰よりも無関心な人間に映ることもあると思います。僕はよく「どんな話をしてもとりあえず話が通じる」と言われることもあれば、「一切主観的なことを言わないから隙がない(どんな人か分からない)」とも言われることもありまして、きっとそれは、ここらへんの感覚や距離感のせいなのかなとも思ったり…。どちらにせよ悪意はないんですけど、勘違いされやすい性格であるのは自覚しています。

 話を戻しますが、そういう世界観のもと生きているので、自分の思考の是非を決めるのも自分次第と思っておりまして、あまり誰かに自分の考えや思想を理解してしてほしい!と強くは思っていないというわけです。もちろん僕にも個人としての思想や哲学がないわけではないですが、作品を通じてそれらを表現したい、理解してもらいたいのかといわれるとあまりしっくりこないわけです。(ちなみにですが、これは"考え"に限った話で、そこから各々の世界が重なり合っていく(行動が伴う)のが社会であり、もしそこで僕に害がある形で重なってくる人がいた時、そこで初めて嫌だなぁと思います。話が難しいですね)

   ・ ・ ・

 それじゃあ君はなにを作品に込めているんだい? という話になるかと思いますが、恐らく自分は"世界"そのものを込めているのだと思います。これまた言い方が難しいのですが、こと時計塔プロジェクトの作品においてはそれぞれ独立した世界があると思っておりまして、それらは繋がっていたり、近しい世界観を共有していたとしても、『ロストピア』なら海に囲まれた孤島、『生霊の棲むゴーストランド』なら孤独の国、『時計塔の街にて』なら変則的ですが幽玄界・亡霊横丁のアトリエ等々…その作品独自の世界があり、僕はそれらを表現したくて、それらを作品に込めているのだと思います。
 それはきっと、人に感じている各々の世界観だとか、世界そのものの存在を解釈するのに似たようなものなのかもしれません。ここはもっと考察が必要な気もしますがまた本論から逸れそうなので又の機会に。

 厳密に言うと、世界を込めたいという思想を"込めている"それ自体が自分を表現することに繋がっていることになるのかもしれませんが、そこまでいくともうわけわからんくなりますね。ただ、作品に"自分"ではなく"世界"を込めているんだ。という主張は、僕にとってとてもしっくりくる主張だなと思っています。
 より純粋に作品を楽しむため、作品から始まり、作品のなかで完結するもの体験をしたい。それにあたって、作品の世界の外にいる僕は一旦放っておいてもろてって感じです。

 ただ、そんな時計塔プロジェクトの中でも"自分自身"を表現しているものがありまして…。
 そうです。この『亡霊横丁のアトリエ』がそれにあたります。表現というか、自分自身が作品世界の中にいます。これだったら僕の理念である「世界を表現する」を叶えつつ、「自分自身も表現」することも叶うという、まさかのどちらの指向性も持ったコンテンツになっているというわけです。正直偶然です。

 ですが、改めて考えると『亡霊横丁のアトリエ』も僕のやりたいことをやり続けている時計塔プロジェクトだからこそ生まれたものなのかなと。偶然の産物(不可避)というわけです。

 そんなわけで、作品における"自分"という存在は、それを表現する人間の作品、ひいては自分との向き合い方を表すものなのではないかなと思います。それが良いのか悪いのか、それは"自分"が決めることなのかもしれません。

 それではまた次回。亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )