2025年6月28日土曜日

人を傷つける創作は誰かを救えるのか

 どうも。昔は雨があんまり好きじゃなかったのですが、最近は家にいることが多く外に出る用事がないときに雨が降りがちなので割と好きになってきました。シンプルに屋内が好きなだけなのかもしれません。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作における人を傷つける表現についてお話しました。人は傷つけ傷つけられる性がありますが、創作物を楽しんでいるときにもその瞬間は訪れるものなのでしょうか。もしそうなら、自分はどう創作をするべきなのか…。そんなお話です。


『人を傷つける創作は誰かを救えるのか』

 今までのテーマとくらべると少しセンシティブな香りのする今回のテーマですが、創作や表現を世界に向けてする上で避けては通れないことだと思うので一度話しておこうかと。
 これこそ人それぞれな部分はあるかもしれませんが、自分の苦悩や他人の苦しみ、共感や本質を描こうとしたとき、必ずしも楽観的でポジティブな答えにならないことがあります。というか、ポジティブな側面を描きたいときこそ、ネガティブな要素や苦しみ、悲しみを知っておく必要すらあるのではないかなと思います。四面楚歌ですね。
 そういった意味で、本質的な創作をする上で、人の内面的な弱さや目を背けていたい事実に踏み込んでいくことは避けては通れないのかなと思います。ただ、そういう踏み込んだ表現や描写を受け取ることで自身にダメージを負ってしまう、という経験が…受け手としての僕はそこまでないですが、中にはしっかりダメージを負う方もいたりするかと思います。
    それらはキャラクターへの感情移入が創作の域をこえて、現実世界にいる人と同じような関係性や感覚になるからこそ生まれるものだったり、受け手が抱えているコンプレックス等がトリガーになる場合もあったり、その瞬間は様々。

 創作をし始めた当時の僕は、そういった、創作で人が傷つくことについて悩んでおりました。自分の作品が本質的になればなるほど、自身の欲求やコンプレックスに絆されずに書けば書くほど、それらは冷たくて、現実的で、でも避けられない事実だったりしたわけです。洗練させることの副作用、ともいえるかもしれません。

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 しかし、少し考えてみたくらいの段階で、想像で傷つく人を想定して表現をしたところでキリがない、と悟ります。例えば100人中99人が共感して感動した作品があったとして、100人中99人が共感して感動した作品だから嫌、辛くなる、という人がいるように、万人にフィットする表現はないのだなと。
    ただ、めっちゃくちゃ尖った表現をしたり、強い言葉を使っても傷つかない創作物がたくさんあるのも事実。これは一体なんだろうと考えたときに、悪意を持って、傷つけることを目的に制作をしていない、というのが指標として重要なのではないかと気づきました。そしてそれは、作り手だけではなく受け手にも言えることで、作品に対して最初から否定的な目線で臨んだり、文脈を意図的に切り取って解釈しようとしない限りは、不用意に傷つくこともないのではないかと思い至ったわけです。
 そしてその前提があったうえで、それらの表現を"創作"の文脈で伝えきり、受け取りきることができればより傷つくことはないのでは、と当時の僕は考え至りました。
 そうした不安を払拭して『レプリカリウム』等から始まる、今の自分の制作のスタンスにつながっていたりします。

 もちろん、表現自体に自由は保障されている世の中ではありますが、責任も伴うのが暗黙のルールでありまして、その点で創作者は創作の文脈を超えないもの、現実を侵犯しすぎないことが肝要なのかなと思います。とはいえ、作品や時代ごと、目的によって超えていくラインは変わっていくので、それらの感覚をしっかり養ってギリギリを攻めていくことが、ある意味では本質を突いていくということなのかもしれません。

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 さて、ここまで人を傷つけないように、という話をしましたが、僕はどちらかといえば悪意を持った創作物でないかぎり、傷つけたり、落ち込んだりするような表現はあっていいと思っています。
 例えば辛いことや悲しいこと、自分と重なって深く共感する表現というのは、それ自体が傷を癒す薬にもなることがあるからです。自分の状況や考えを改めて見つめるきっかけになったり、自分以外にもこの苦しみを分かってくれる人がいる、自分の苦しみを代わりに表現してくれているんじゃないかと思える。それらは、どん底の世界で見つけた美しい花のように、自身の世界観を変える一助になりえるのではないかと思うわけです。そしてそれこそが創作が持っている強みなのではないでしょうか。
 こうした文脈的なラインと、届いたときにどんなことが起こるか、を想像することで、僕は自分の表現に自信を持てましたし、迷いもなくなりました。

 結局のところ、そういった表現を創作に昇華するためには自分自身が先陣をきってボロボロになるまで向き合うことが大切で、そうして見つけた答えにこそ本質が宿り、人々の心が動かされるのでは、というようなお話でした。

    どうせ自由に表現できるのであれば、中途半端にかみ砕いたものではなく、懇切丁寧に自分のものにしたものを表現していきたいものですね。
 それではまた次回。亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年6月18日水曜日

“結果が出ない時期”との向き合い方

 どうも。梅雨の時期に季節感たっぷりの延々日和のShorts動画をYoutubeにアップしてやるぜ~!と息巻いていたのですが梅雨ないなった…。生粋の晴れ男、時計塔プロジェクトの吉岡大地です。

 今回は上手くいかない、いわゆる"落ちている"状態にどう向き合っているのか、ということについてお話しました。最近は作家の方とお話する機会が増えまして、そのたびに成功の裏には日の目を浴びない多くの"上手くいかない"があり、そこを耐え忍び突破しているからこその"上手くいく"があるのかなと思ったり。なんできびしい世界なんだここは…。



『“結果が出ない時期”との向き合い方』


 結果については以前話した『結果が出てないのになぜ続けるの?』( https://ctpjblog.blogspot.com/2025/03/06.html )を参照していただいて…。
 そんな結果が、今のSNS時代の影響もあり数字としてとっても分かりやすく、目に見える指標として白日の下に晒されています。これがなかなか今を生きる活動をしている人間に良くも悪くもド刺さりする仕様で、特に結果を得られない場合に精神的な面で容赦なくダメージを与えてきます。
 ただ一応、そういったネガティブな側面もありつつ、現状を客観的に観測できるという側面もあるのも事実。活動の流れやバイオリズムが可視化されることで見えてくる方針や改善の余地もあるかと思うので、一概に悪いとも言えないということは理解しておく必要があると思います。
 とはいえ、ネガティブな側面は無視をするには大きすぎる。ここにしっかりと折り合いをつけ上手に付き合っていくことがやはりこの時代で活動をしていく上で大切なことなのかなと思うわけです。

 そこら辺を整理する前に、前提として作品を作ることと作品を広める(結果を出す)ことは必ずしも同じ能力ではなく、それに向けて磨くもの、こなすタスクも全く違ったりします。
 このプロジェクトにおいては特に、作品は結果に左右されるものではなく、僕自身がいいと思ったものを作ることを目的として活動しています。ただ、だからといって広まる必要がないというわけではありません。(性質として広まりづらいという事実は受け入れる必要はありますが…)
 もし作品自体が大衆向けではない、広まりづらいという部分があったとしても、人に届けるクオリティに到達していないという場合を除いて、その作品の中で一番伝わりやすい、伝えやすい形にして届けるということは作品を変えずともできることなのかなと思います。つまり、伝わりづらくても、伝える努力を怠っていい理由にはならない、ということです。
 だからこそ僕自身も作品は変えずとも伝え方を試行錯誤しているので、上手くいかなかったときは「ダメだったかぁッ!!」とじたばたしながらAPEXやゼルダの伝説を起動し現実逃避をするわけです。

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 ただそのなかで気を付けなければいけないのが、その結果が本当に自分の作品に興味を持たれなかったのか、それともただ気付かれなかっただけなのか、という事実を見極めることなのですが、これがまた難しい。数字だけでは判断ができない部分なのです。
 それを理解していないと、判断や特定が難しい事実を「作品がダメだったのかな…」「自分の宣伝が足りなかったのかな…」と感情で決めつけてしまいがち。これは起こったことに対する理由や因果関係が不明瞭だとストレスになってしまうことに起因する、ある種の防御反応みたいなもので、事実を誤認したうえでネガティブな感情も併発してしまうという最悪の結果になり得るのです。

 改めてそういったことを理解したうえで、一度冷静に"上手くいかなかった"を見る必要があるのですが、同時に"上手くいった"、いわゆる活動の"上振れ"にも実は同じことが言えるのです。
 大体人はいい結果の時に「これがワイの実力やったんや…」と感情で判断しがちですが、これも下振れと状況は同じで、たまたま見る人が多い時間帯に投稿していたり、時の運や流れに沿ったものを"良い"タイミングで出せたことによる上振れだったりします。同じタイミングに同じものを発表したとき、状況や環境が違うだけで真逆の結果になることだって全然あり得るわけです。それって果たして実力なのだろうか…。と、僕なんかは考えてしまうわけです。
 なので、そういったことを加味したうえで自分はどうしているのかといいますと、数字に関しては極力中央値を見て、それを自分の実力や今の場所だと判断するようにしています。もう少し踏み込んだ表現をすると「当たり前になっている数値」とも言えるものでして、ここの上昇、下降によって活動の調子を判断しています。上振れも下振れもしていない数値ですね。
 ここに向き合うことで、その中央値にどれだけ僕以外の誰かが時間と労力を使ってその数字を支えてくれているのか、という認識を改めることができるのです。あえて当たり前になっている数値と表現しましたが、僕自身はそれをすることによりそれは自体が当たり前ではなことだよな、有難いことだなと再認識できます。この認識を常に持つことが、上下に振れても冷静でいるために大切なことなのだと僕は考えています。

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 長くなっていますが最後にそれでも落ち込んでしまったときどうするかという話を少しだけ。

 基本的に落ち込むようなことがあったとき、僕はしっかりと落ち込むようにしています。落ち込むということはそれだけ現実を見る時間にもなりますし、過大評価して次の行動を起こすよりもよっぽど有意義な時間だと思っています。
 とはいえ、落ち込むことによって作業が手につかなくなったりすることもありまして、そういった場合のしわ寄せは大体未来の自分がリカバリーしなくてはなりません。それ自体は非常にデメリット。さて困りましたね。
 そこで僕は「落ち込む時間は無駄。非効率だ」と自分に言い聞かせ、少しずつ自分の考え方を変えていきました。実際作業の手が止まれば無駄な時間ですし、リカバリーするのも自分だし、落ち込んでた時間であれもこれもできたよな…と落ち込み終わってから思うようにしています。
 もちろん、まったく落ち込まなくなったわけではないですが、落ち込むこと自体減りましたし、立ち直る時間も早くなりました。
 そもそも、落ち込むということのメリットは"現実を受け止める"というところにあり、他はその副産物でしかないので、そのメリットだけをしっかり享受したら切り替えていこう、というのが僕が最終的に達した"上手くいかない時期"の向かい方、という話でした。

 動画では他にも「広まらない作品は良くない作品なのか」だったり、「成功の仕方を選ぶこと」について話してるので、気になった方はぜひ動画も見てみてください。

 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。


時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年6月7日土曜日

創作を続けるためには

 どうも。先日Switch2が当選しまして、当日までなにも手につかないかと思いきや、制作の締め切りだらけで手を動かさないわけにはいきません。みなさん、これがどういうことかもうおわかりですね?しばらくは環境的モチベで制作をします。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作を続けるために、というトークテーマで動画を撮りました。ここのところ動画時間は20分以内と勝手に決めていたのですが、気がつくとオーバーしてしまいます。配信もそうですが、この手のものは慣れると長くなりがちですね。気をつけなければ。

 さて、そんなわけで早速本題にいきましょう。


『創作を続けるために、僕がしていること』

 みなさんご存知のことかとは思いますが、僕は時計塔プロジェクトと作家業とナユタという音楽制作バンドとつれづれ推進委員会という活動をした上で事務仕事もしています。副業が推奨される時代なのもあって、僕もあえて並行してこれだけの活動をしています。嘘です。気がつくとこんなになってました。
 とはいえ、どれも自分の中で理由を持ち、それぞれの活動ごとにしっかりと線引きをしながらやって今に至ります。
 今回は自分がやりたいこと、やらなくてはならないことのメンタル的な切り分けから、それらを叶える時間の使い方について触れていこうかと思います。ただ、これはいつも言っていることですが、あくまで僕がそうしている、そう考えているという話ですので、参考程度に見ていただければと。

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 自分がやりたいことと、世間が求めているもの、殆どのケースが全く同じであることはなく、自分の作品や世間に発表する以上、自身と世界の軋轢は意識をせざるを得ないのが常なのだと思います。
 ただ、この意識というもののバランスを調整することはできると思ってまして、自身の欲求へ意識を強くし、それを世間に認めさせようというバランスが創作、逆に需要や求められているものを優先して世間や人に渡していくバランスが制作なのかなと僕は勝手に思っています。もちろんどちらの工程にも創作と呼べるものや制作という行為は存在するとは思いますが、その比率によって四捨五入したものを創作、制作とここでは書き分けていきます。

 創作をより細分化していくと、例え需要がなかったとしても、自分がやりたいことや欲しい物をつくるという、ある種利己的なきっかけでスタートし、それを世の中に投げかけていく。というのがこと自分における創作で、まさしくこの時計塔プロジェクトでの活動がそれにあたります。
 制作はまず需要があって、その需要に対して自分自身の培ってきたものや技術、感性で作ったものをお渡しするというのが制作にあたるのかなと。こちらは創作業や事務仕事、いわゆる生活の基盤をつくる"本業"といっても差し支えないのかなと思います。

 もちろんこれらに上下はなく、どちらが欠けたら前には進めなくなる、人生において重要な両輪のようなものです。
 自分の好きにやっているだけじゃ得られなかった別の角度からの技術や視点の習得や、アイデアからそれを実現し、実際に世間に発表するまでをやることでしか得られないひらめきや発見もあります。そして、特に僕の場合はそれらが創作にも、制作にも活かせる環境を作っています。

 そうやって見てみると、一口に作ると言っても指向性があるわけです。僕はこの指向性をしっかりと理解し、スタートの時点で創作は創作、制作は制作としてやれることやりたいこと、そこでできることできないことをちゃんと考えて創作と制作を切り分けています。
 創作をし過ぎると制作の精度がさがり、制作をし過ぎると創作の仕方を忘れる。自ら選ぶ分には全然問題ないと思いますけど、意外と意識してないと陥りがちな落とし穴で、それが原因で続けられない…となっている人も僕の周りには何人かいたこともあるので、そういった切り分けをしっかりすることで続けることができるし、逆に切り分ける場所が分かれば、どちらも両立することも難しくないのかなと思います。

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 実務的な時間の使い方は…長くなりそうなのでどうしても気になるなら動画をみていただければという感じなのですが、簡単にいうと、自分がしているそれぞれの工程、作業にどれだけの時間がかかるかをしっかりと算出して、それを加味したスケジュールをつくることが大事かなと。
 あとは締め切りを使って作業のモチベを持続させるという方法があり、僕もたまにやりますが、効果が強力で、効き過ぎるが故に抜けられない、それがないと作業ができなくなってしまうこともあるので、締め切りや約束を使った環境的モチベーションは程々にしたほうが…とも思います。マリカワールドやりたい。

 次回は間に合えば来週の月曜に動画を出したいと思いますが、翌日6月10日の時計塔プロジェクト記念日の配信が次回になるかもです。のんびりと9年目の振り返りしていきます。
 それではまた、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

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2025年5月31日土曜日

影響の"受け方"を選んでいく。

 どうも。最近動画をこだわって作ることが多くなってきてまして、さすがに動画編集ソフトしっかりしたものにしなくちゃなと思いつつなかなか移行できません。Aviutl戦士、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 Aviutlは慣れてしまうとこれしか使えなくなるという呪いのアイテムらしいです。助けて。
 さぁそんなわけで今回は受ける影響を選ぶ、ということについてお話しました。オリジナリティの話や作品に自分を出すかの話をしたときに、思い返してみると自分はそういった部分で受ける影響を人間関係や環境によって上手に選択してきたなぁと思いまして、本記事ではそれについて書いていきます。


『影響の"受け方"を選んでいく。』

 自分は割と昔から他人や環境が自分にどういった影響を与えるのか?というのを考えながら生きてきました。(逆も然り)
 とにかく創作に向き合える環境に飛び込んだり、自分の感性をいい方向に導いてくれそうな人と一緒にいたり…。あくまでも自分にとってではありますが、最終的にいい創作ができるような、そんな予感がするところへ向かっていっていたりします。
 これは以前お話しした、いろんな要素や考え方からいいところだけを分析して選びとって自分のものにするという、僕自身の価値観によるものも大きいのかもしれません。創作以外にはあまりこだわりがないのもいい感じに作用している気もしていたり。

 そうして、こういった物事を毎度考察しながらとりこんでいくわけですが、取り込むためには、自分はどういう影響が欲しいのか、ということについても同時に考えることになるわけです。方向性、というやつですね。
 それらは理想の自分や理想の感性・創作とも言えるもので、そういったことを自覚し始めてから、日々の小さな事柄でも常に理想の自分に必要なことか、必要ないけどそれでもやりたいことなのか等々…なんとなくで影響されたり、なにかをすることも少なくなりました。もちろん、人によっては疲れるやり方だと思うので、あくまで僕自身がしっくりきた考え方ではありますが…。

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 影響というものは大体が受けてから、受けた影響がなにかしら表に出てきた瞬間に自覚するものではありますが、自分の場合は表に出てきた影響はどこから受けたのか、ということを考えることで、だんだんと逆算ができるようになったのだと思います。
 これらは創作だけでなく、僕自身の人格を形成していくのにも役に立っているところがあったりします。僕は自分の人生において不機嫌になったり不快な感情を覚える時間を極力少なくしたいと考えておりまして、もちろん落ち込んだり、もう駄目だと思うことが避けられないときもありますが、それらの時間がそもそもストレスだし、創作の糧にならないのであれば早急に脱したいなと思うわけです。
 そうしたことを叶えるために、いつも穏やかにしている人や、感情のコントロールが上手な人、自分以上にワーカーホリックな人、創作ジャンキーな人からその人自身の人生観や価値観、世界観を聞いて、僕自身に合ってるもの、理想を叶えるヒントなどを見つけて取り込んでいくことで、欲しい影響を受け入れていきます。(コツは、直接的な方法とかじゃなくてその人がどういう意図や意思をもってそういった行動をするのか、できるのかを知るのが結構いい感じにためになります)
 ただ、これらを叶えるためには、当たり前ですがそういった影響を与えてくれる人がいることが前提となるので、日頃から「この人はいい影響を与えてくれるかもしれない」「いつかこの人から話を聞きたい」とアンテナを張ることが肝要なのかなと。そして、それをするためにはこれもやはり日頃から理想の自分や考え方、行動を知覚しておく必要があります。
 そういったサイクルを踏むことで、卵が先か鶏が先かみたいな話になるんですけど、常に自分の向かいたい方向が分かってくる、自覚し続けるなかで、更に影響についての考察が捗っていくってワケ。

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 もちろん、影響をすべてコントロールするのは難しいとは思いますが、もしそうだったとしても「これはあの人の影響だな」とか「あの作品から影響を受けてるな…」とか、影響されたものを自覚しておくことで、その影響の解像度があがりますし、なによりそれをしっかりすることによって「影響されたもの」から「自分のもの」になっていくのかなとも思います。
 せっかく影響を受けるのであれば、自分の人生がよくなるような影響を受けたいものですね。
 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

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2025年5月29日木曜日

創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。

 どうも。数年前から心霊・オカルト系のエンタメ動画にハマってしまい夏が近づいてくるとどんな映像作品が見れるのかとわくわくするようになりました。ちなみに霊感は幼少期のころはなかったのですが、最近になってもありません。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は前回動画のお話です。先週から今週に掛けて過密にいろいろやっていたので落ち着いて文章を書けませんでしたので今書かせてもらってます。
 そんなわけで、この回ではロジックとフィーリングな制作についてお話させていただきました。理論でやるか、感覚でやるか…思っていたよりもみなさんの関心が高かったようで、今までで一番の高評価をいただきまして…いつも見てくれる方、見つけてくれた方もありがとうございますといった気持ちです。
 亡霊横丁のアトリエに呼応するようにメインチャンネルも見ていただけているようでして、規模は小さくありますが目的に沿った結果が出ていてよかったなと思っています。作品と僕自身が両輪になってこのプロジェクトを進められていければと思いますので今後ともぜひよろしくお願いします。

 それではまた、と締めたくなるような感じになってしまいましたが、ブログでも今回のトークテーマについておまけ程度に補足等してきたいと思います。よければスキマ時間のお供にでも…。


『創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。』

 そもそもこのテーマにしたきっかけとして、以前『青春はポップソーダ』のライナーノーツ内で「自分は理論派の皮を被った感覚派」と書きまして、それは一体どういうことなのか、という部分を深堀りしようとこのテーマを選びました。

 創作をするにおいて、人それぞれにスタンスというものが存在すると思いますが、根本的に二分するとしたら"理論"と"感覚"の2つなんじゃないかなと思います。
 音楽理論を習ったときは、すべてを音楽理論通りにやるのは良くないと注意され、自分の感覚だけで制作していたら、ここは不協和音だから音楽理論を元にこの音を直そうと注意されたり…。もしかすると音楽だけかもしれませんが、理論と感覚はどちらか100%に振り切ろうとするとどちらかが成り立たないような、そんな関係なのかなと思います。

 一応どんなものが理論的な創作で、どんなものが感覚的な創作なのかについて簡単に書いておくと、再現性や合理性があるものをもとにして制作することがざっくりですが理論的な創作、対して瞬間のひらめきや何かいい感じがするという直感的に制作することが感覚的な創作。とりあえずこの記事においてはそう解釈して話を進めていきます。

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 そして、上記を踏まえ自分がどちらの派閥に属するかといいますと…まぁ、書いてある通り「理論派の皮を被った感覚派」となるわけです。
 とはいえどちらも同時に成立させているわけではなくて、例えば創作のスタート時、設計やアイデアなどは結構理論的に行っていたりします。こういう展開にしたい、こういう感情を表すならこんなシーンが欲しい、このメッセージをのせるならこんなメロディがいい等、組み立てていく工程や作業と呼ばれるようなものは基本的に冷静に考えている場合が多いです。
 ただ、それらをよしとするのか、しないのか、そこの判断は感覚で行っていたりします。どれだけ理論武装されたストーリーやシーン、整然とした音だったとしても、それらが自分の感性や心、感覚に作用しなければ味気のないものに仕上がります。ここでめっちゃ根本的な話になるのですが、そもそも創作物が行き着く先、最終地点は「感情」であり「感覚」だと自分は考えているので、そこに行けないものはこと時計塔プロジェクトにおいてはNGなわけです。

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 これはどこで言ったか覚えていないのですが、自分は創作すること自体はとても理性的な行為で、感情的な部分は作品と受け取り手の間にあるものなのかなと考えています。それらを冷静に再現させることこそが創作の面白いところで、創作だからこそ得られるものなのかなとも思います。
 きっとそれらが、僕自身の創作における"理論"で作る部分、"感覚"で作る部分の線引きに影響しているのかなと。
 そんなわけで、創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。という話でございました。個人的には使い所なのかなぁと思いつつ、どちらのいいところも余すところなく頂きたいという僕の貪欲さが表れている話になった気もします。
 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

※ちなみに、『青春はポップソーダ』のライナーノーツはこちらです(宣伝)

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