2025年3月21日金曜日

亡霊横丁ってどこにあるの?

 どうも。毎年3月は多忙による長時間のデスクワーク&花粉症によるくしゃみのダブルコンボで腰が壊れて寝込むのですが、今年はくしゃみを我慢することで今のところ乗り切れてます。困難は根性で乗り切る脳筋派、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 前回はブログのほうが書けませんでしたね。でもそういうときもあるでしょう。ブログとはそういうものです(非理論武装)
 あくまでこちらは配信、動画のおまけとしてお楽しみいただけると幸いです。

 さて、まえがきで長くなるわけにはいきませんので、早速本題に移りましょう。


『亡霊横丁ってどこにあるの?』

 ロストピアを公開したあと突如として始まったこの「亡霊横丁のアトリエ」という謎のコンテンツですが、僕の中ではある作品の中の場所という認識をずっと持っており、いつかここでなにかしたいと思っていた場所でもありました。
 始める前、亡霊横丁について事前に説明してから始めようかと悩んだのですが、当初は僕自身のUnityスキルもままならない状態で、映像は空と屋根とベランダの机を映すのが精一杯。これではどう説明しても伝わらないと結論付け、一旦諦めた記憶があります。
 そもそも、現実世界にいる"自分自身"が別世界へ赴き、そこでお話したり創作活動をしたりなんてのは様々な活動と呼ばれるものの文脈から逸脱した特異なものなのかなと思いつつ…。
 なので、自分の頭の中にあるものをみんなが知覚できる形にしてからじゃないと一つも伝わらないだろうなと考え今にいたります。今なら雰囲気くらいは伝わるはず…。

 ちなみに、ここでお伝えすることは僕がこの世界に行って見聞きしたものを報告しています。僕の主観的な解釈が混じっており、もしかすると実際のものとは違う可能性がございます。それだけご承知おきを…。

   ・ ・ ・

 まず、僕が配信や動画撮影をしている"世界"についてですが、この世界は「幽玄界」(ゆうげんかい)という名前です。
 幽玄というのは「奥深くて、はかり知れないこと。趣が深く味わいが尽きないこと」という意味で、まさしくそんな世界という印象を僕が持ったのでそう呼んでいます。

 幽玄界と現実世界がつながったのは、時計塔プロジェクトのサイトをゲーム化した『時計塔の街にて』という作品がきっかけになります。この作品は、時計塔プロジェクトの影響を色濃く受ける世界がもとから何処かにあり、数年前に『Walk alone』という作品を発表したことにより、それに強く影響を受けたこの世界が一人歩きをしはじめ、最終的に僕の元へつながりを求めてやってきて生まれた作品です。(これ動画で言い忘れてました)
 ちなみに『時計塔の街にて』の舞台になっている街は「刻都ノクヴェール」という名前です。刻都(こくと)は時間を刻むというところから来ています。ここは人の往来があるのですが、現状僕が幽玄界に持っていけるカメラの性能がしょぼく映せません。刻都ノクヴェールで撮影ができるようになるのも、もう少し先になるかと思われます。

 そして『亡霊横丁のアトリエ』をやっている「亡霊横丁」の場所ですが、刻都ノクヴェールの外れに旧市街がありまして、そこの一角が亡霊横丁となっています。名前の由来は、人っ子一人通らないので、ゴーストタウン的なニュアンスで亡霊横丁(GhostAlley)と呼ばれています。もともと別の名前だったらしいのですが、通称がそのまま場所名になってしまい、今では亡霊横丁が正式な名前となっているようです。住所表記も亡霊横丁ですが、細かいところは個人情報なので教えられません。

 そういった場所で、この『亡霊横丁のアトリエ』は撮影されています。時計塔プロジェクトが制作したものに影響を受ける世界なので、まだ映しきれていないどこかに作品の影響が出ているはずなのですが…。
 それは、今後色々な場所へいけるようになれば発見できるのではないかなと思っています。

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 動画でも言いましたが、この幽玄界はいい意味で僕の手に余る世界になっていると感じています。時計塔プロジェクトの作品や世界が"深化"していくごとに、この世界にも変化が訪れ、深みが増していくのだろうと今からワクワクしています。
 とはいえ、今のところそれを観測し伝えられるのは僕しかいません。残念なことに現実世界が忙しくて幽玄界に入り浸ることができないのが現状。早く隠居(別世界)したいものです。
 そんなわけで、時計塔プロジェクトの作品同様、鈍行運転の世界ではございますが僕が観測すればするほど発見もあるかと思いますので、気長に楽しんだり、想像してもらえると嬉しいです。

 それでは、また次回。亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

P.S.
 これは最近制作している弾き語り配信のスタジオ(アトリエの2F)です。儀式感がすごい。前の家の持ち主が放置してた物を掃除したり1階に移動してできたスペースを使ってます。

Camera1

Camera2

Movie(音は出ません)

 以上!本当のおまけでした!

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )

2025年3月6日木曜日

結果が出てないのになぜ続けるの?

 どうも。最近静電気は指先で受けるのではなく手のひらでガッと行けば痛みが分散されることを知り、時には勢いも大事なのだと教わりました。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先日『ココロノユライ』という楽曲を発表させていただきました。こちらは生配信でほぼ即興で作ったものを後日編曲して完成させました。毎回思うのですが、作曲配信は自分のメロディやコードの手癖がめっちゃでるので楽しくもあり恥ずかしくもあり…。そろそろみなさんも僕の楽曲の癖がわかってきたのではないでしょうか。

 そんなわけで本題いきましょう。今回のトークテーマは動画を撮ったあとに「今この話するのミスったかも…」と思いましたが、次の瞬間にはまぁいいかスイッチが入り「まぁいいか…」となりました。マジでこのスイッチ壊れとる。


『結果が出てないのになぜ続けるの?』

 一見、心ない人が僕に対して「このテーマで話せ」と言ってきたように捉えられてしまいそうなので予め言っておきますが、これは先日同じように音楽を生業にしようとしている知り合いと話したときにこういう話になり、その際に亡霊横丁のアトリエで話したら面白そうだなと思い選ばせていただきました。僕に対して一番心ない人間は僕なのかもしれません。

 さて、まずここでいう結果というのは、客観的に分かりやすいもの。ざっくりいえば「数字」ととらえていただいて大丈夫かと思います。販売数や金額、再生回数etc...世の中に作品を出す以上、僕らはこの数字が判断基準となり、それによって取捨選択されていきます。
 これが社会的な価値となり、多くの人に受け入れてもらえるキャッチーな要素にもなりうるわけです。

 ただこの種類の結果は正体が見えづらいのが非常にネックなところで、「得る努力をすれば必ず得られる」というものではありません。出したい結果が出ない、というのがデフォルトで、僕自身も思い通りに結果が出せたことは試行回数の1割にも満たないくらいです。つまりほぼ結果は出ていません。

   ・ ・ ・

 それでもなぜ続けるのか、という話ですが、一番最初に思いついた言葉通りに書きます。
 これはね、"馬鹿になっちゃってる"んですよね。上記のように実現するかも分からない、どれだけ人生を費やしても最後まで結果が出ないリスクのほうがむしろ大きい世界に飛び込むというのは、まともではないわけです。ましてやそこに身を置き、たくさんの理想や憧れが削ぎ落とされた状態でまだその世界にいられるのは正気の沙汰ではありません。合理性や利害の判断もまったくついていないガバガバな状態なわけです。
 ただ、そこにしかないものがあることも事実で、創作をすることでしか得られないものも間違いなくあります。それに脳を焼かれ、戻ってこれなくなった悲しき創作マシンが何を隠そう私、吉岡大地という男なのです。

 とまぁこれを答えにしてしまうとあまりにも乱暴なので、もう少しだけ掘り下げていくと、結果を結果と判断する基準として、その人自身がなにを求めているか、どんなハングリー精神を持っているかということが言えるのかと思います。
 結果って数字なんじゃないか、という話を先程したのですが、数字はどこまで行っても数字でしかなくて、結局はその数字で何を得たいのかが重要で、それがハングリー精神とつながっていくものなのだと思います。本当に求めているのは結果そのものじゃなくて、結果で得られるものなのかなと。

 人間である以上、その因果関係が逆転してしまうこともあって、それが結果が出ないことに対する苦しみの原因になりうるのかなとも思います。
 ただ、その結果で何が欲しいのかを考えてみると、意外と結果にこだわることが遠回りになってたり、それが自身の抱いているハングリー精神と乖離していることも往々にしてあります。
 つまり、本人が欲しいものを得られない結果は、結果ではなくなってしまうわけです。

 これは結果の悪魔的な部分でもあり、魅力的な部分でもあるのですが、"欲しいものが手に入らないという結果"を受け入れることを難しくしていたりもします。
 でも、続けたことによって最終的に欲しいものが手に入ったとき、今までの満足しなかった結果が全部チャラになる、結果というのはそんな魔法のような事象なわけです。話が複雑になってきたぞ。

 まぁざっくりとまとめると、欲しくない結果はどんなに惨憺たるものでも、素晴らしくても数字でしかなくて、本質的に自分が求めているものが手に入らないからこそ、それが続ける理由になりうる、ということですね。

   ・ ・ ・

 もし、自身の持つハングリー精神から開放されたいのであれば、手に入らなかった結果を受けいれ、離れることもいい判断なのだと思います。というか、そっちのほうが正常な判断です。何度改善しても何度挑戦しても叶う保証がない世界に幸せはほとんどありません。
 僕も離れていった人はたくさん見てきたけれど、みんな力が抜けてなんだかんだ幸せそうです。ずっと力が入りながら、心も体もごりごりに削って創作を続けている僕こそ不幸せなんじゃないかと思う瞬間もあります。実際、そういう部分も多いのだと思います。
 それでも、僕は幸福になりたくて創作をやっているわけではなくて、ただただ純粋に自分の心を打ち震わせる作品に出会いたくてやっているので、「まぁいいか…」って思ってます。やっぱり壊れとるこのスイッチ…。
 
 そんなわけで、結果が出てないのになぜ続けるの?というお話でした。
 今日も僕は自分が制作した作品に感動してうるっとしてしまいました。本当におめでたい生活を送っています。
 でも僕は、この感性を一生大事にしたいと思います。きっともっと心を震わせたいというハングリー精神があるかぎり、このプロジェクトは続くのでしょう。どんな結果になろうとも。

時計塔プロジェクト 吉岡
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Twitter( @Clocktower_PJ )