2025年2月19日水曜日

作品が完成する条件とは?


 どうも。雪が降ったとき周りではしゃいでる人を「やれやれ…子供だな」という顔をして見ながら実は心の中で小躍りしています。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回おそらくよく喋るだろうと踏んで短めに話したのですが40分を超えてしまいました。普段はあまり饒舌に話すことも少ないのですが、創作のことになると早口になります。僕は創作オタクなのかもしれません。

 それと、今回またサムネのレイアウトを変えてみました。結構この試行錯誤が好きで、MVや広報物の制作にも役立ったりします。より"それっぽい"ものが作れたとき、とてもやりがいを感じます。僕はミーハーなのかもしれません。

 さぁそんなわけで早速本題に入りましょう。


『作品が完成する条件とは?』

 完成、といっても人それぞれかと思います。僕は人に見せる上での最低限の完成(客観的な完成)と、自分が納得する完成(主観的な完成)の二種類があると思ってまして、前者は作品を中身以外でストレスなく楽しめる"品質"のようなもので、後者はクリエイターのこだわりやエゴの部分だと考えています。

 ブログのほうは長くなってもあれなので、今回書くのは主観的、つまり「クリエイターとしての完成の条件はなにか」というところをメインで書いていこうと思います。(客観的な話は動画にて…)

 さて、主観的な完成といっても一言では言い表せないくらいそれぞれの媒体ごとに違った完成があるのかなと思っています。

 まずは音楽の完成。これらはあくまでも時計塔プロジェクト内での完成という話になりますが、最初に結論を言ってしまうと"色"が一致したときに完成と思うことが多いです。
 この色というのはコードが持つ色、楽器の音が持つ色、声が持つ色、歌詞が持つ色 等…それ自体が持っている雰囲気や性質的な、なんとも形容しがたい感覚、僕独自の印象みたいなものがありまして、それを自分の中で"色"と呼称しています。
    例えば『青春はポップソーダ』という色があったとして、その色に合うコード進行はこれ、それに合うメロディはこれ、歌詞はこれ、アレンジは…といった感じで、あくまでも自分の感性の中でですが、青春はポップソーダ色を使って『青春はポップソーダ』を作り上げていくようなイメージです(伝われ)

 そして、これが厄介かつ面白いのは、色を組み合わせていくことで同じコードや言葉でも別の色に変わっていくことがあります。それを含めて作品の"色"を一致させることが完成の条件になるのかなと。

   ・ ・ ・

 次は小説の完成。これも結論から言ってしまうと、"読後感"が尾を引くものになったとき、完成したと思えます。作品が描く世界から戻れなくなるような感覚といいますか、行ったことはないけど興味がある国に想いを馳せるような、そんな感覚が近いのかもしれません。
 この読後感というものは、単純に長い時間同じ作品を読んでいれば一様に訪れるものなのかもしれませんが、より深い読後感を与えるためには、より深い没入感が必要になってきます。
 それは、世界観の作りこみだったり、キャラクターの動かし方だったり、いろいろな要素がかみ合ってその世界がこの世にあるような錯覚を覚えるからこそ生まれるものなのだと思います。

 自分の中でそれにつながるこだわりポイントとして、一行一行しっかりと意味を持って書くようにしておりまして、文章の展開における緩急やテンポ感はもちろんのこと、キャラクターの掛け合いの中でお互いにどんな思惑があるのか、どんな言葉を返してほしいのか、そんな相手の言葉を理解したうえで話すのか、すれ違わせるのか、世界観の説明は作品の文脈の中でできているか、キャラクターの容姿や性格は登場人物の言動の中で十分に表せているのかetc...上げれば本当にキリがないですが、一行ごとにしっかりとそこにその文章がある意味を考え、意味がないとなれば消すし、前後を入れ替えるべきだという選択を取ったりなど…またまた上げたらキリがないのですが、そういうふうにして少しずつ作品の本質を煮詰めて凝縮した果てに、上記のような読後感が尾を引く作品を作れることが多いのです。

 そうしてできた作品は、キャラクターの目を通して、キャラクターにとっての現実として描かれていく。そしてそれが、読者自身を誰もよりも近い物語の観客にしてくれるのかなと思うわけです。

   ・ ・ ・

 続いてゲーム。こちらは動画でも述べたのですが、ジャンルによって無限に広がってしまうので、短めに…。
 ゲームに関しては小説と遠からずではあるのですが、キャラクターと過ごした時間が思い出のように"体験"として残る、といったところでしょうか。

 例えばRPGの場合、主人公とプレイヤーは一蓮托生でいわばパートナーのような存在になるわけです。そのパートナーと一緒に冒険し、時には傷つき、時には協力して状況を打破していく。そしてゲームが終わる頃には違う国にいる友だちができたような、そんな風にキャラクターが心のなかに残っていくと一つ完成の目安になるのかなと思っています。

 あとは遊び心を心ゆくまでいれられた時ですかね。音楽、小説は僕のスタイルだと遊び心を入れてしまうと本編に強く影響してしまうので、ゲームという、プレイヤーが自由に進行を選択できるものであれば、めっちゃキャラクターに会話をさせたり、めっちゃ世界観深堀りしたり、強い道具と交換できるメダルを各地に散りばめたり等できるわけです。
 そういった風に自分自身が作品を作る側として遊び倒すことができれば、それも完成のピースになるのかなと思います。
 案外、こういった遊び心がキャラクターとの思い出にもなったりするのかなとも。

   ・ ・ ・

 そして最後に『時計塔プロジェクト』の完成について。
 これは書き始めておいてあれですが非常に難しい。僕がいなくなった瞬間なのかもしれないし。僕がいなくなっても将来このプロジェクトを継いでくれる奇特な人間が現れるかもしれないし。誰もやってないのに自立して歩き始めるかもしれないし。
 ただ、一つ言えるのは、僕自身が「もうこれ以上のものは作れない」という作品をこのプロジェクトで作り上げたとき、それが一つの区切りにはなるんじゃないかなとは思っています。
 それは一体いつなのか…。「ワシはまだ作れるぞい!」と言っている自分が頭をよぎりますが、そのときは温かく見守ってあげて欲しいです。

 とりあえず、今のところ終わる気配はないプロジェクトですのでどうか末永くお付き合いいただけますと幸いです。

 今回はこれにて。次回の亡霊横丁のアトリエもよろしくお願いします。ではまた。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )

2025年2月12日水曜日

なんで創作の道に進んだの?

 どうも。先日働いているオフィスで鳥のさえずりが聞こえたので鳥入ってきた!?と思ってたら隣のデスクの人の着信音でした。「その発想はなかったわ」大賞差し上げました。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回も動画にて撮影をさせていただきました。まぁ月1~2回しか決まった配信の時間がとれない、ってなるよりかは動画という形でも元気な姿を見せられたほうがよいかなと。
 ビデオレターかなにかだと思っている節があります。僕は元気です。

 それでは早速本題へいきましょう。


『なんで創作の道に進んだの?』

 創作の道、というざっくりとしたものに対して、僕は幼少期のころから漠然と「そういった道を進むんだろうなぁ」と謎に思っていました。作ったものを褒められた記憶も大してないし、これといった理由も思いつきませんが、その感覚がずっとあります。
 きっと前世の人はものづくりができないまま亡くなったのでしょう。亡霊横丁のアトリエ、タイトル回収です。ありがとうございました。(ブログは殆ど脊髄反射で書いてます)

 そんなわけで、自分の創作遍歴を振り返りつつ、どんな道を歩んできたのかを書いていきたいと思います。
 自分は文字を使った創作が得意だし好きなのですが、最初にやった創作らしい創作は実は漫画だったりします。
 小学校低学年くらいの時に姉が漫画を書いているのを見て「自分もやってみよう」と思ったことがきっかけで始めたもので、今思いだすとほとんどストーリーはなく、キャラが登場一コマ目で急に仲間になったり、空から降ってきて急に仲間になったり、敵っぽく出てきたけどキャラデザ気に入ったから仲間になったり、昨今発達しているAIよりも読めない展開の荒唐無稽なものでした。
 そして絵の練習はせずただただ書いていただけだったので画力も向上せず、小学校中高学年になったころには好きな漫画に影響を受け、設定や展開を引っ張ってきただけの写経のようなものも書いていました。
 とはいえ、僕はここで「自分の頭のなかにあるものを現実に起こす楽しさ」みたいなものを知っていった気がします。

 ここまで書いたところで少し話が逸れますが、そういえば小さい頃、フリーマーケットで買った手のひらサイズの小さなガンダム的な人形を使って一人人形劇みたいなことをやっていたことを思い出しました。
 当時演目という概念は自分にはなかったのですが、並行して進めているストーリーがいくつかあって、それによって人形の役割を変えたりして遊んでいた記憶があります。子供の頃はゲームや漫画をそこまで買ってもらえなかった少年だったので、「自分の欲しい物は自分で作る」というメンタリティはここで培われたのかもしれません。強く生きたな少年よ。

 話逸らしついでに、動画では言い忘れてましたが、小説とゲームは小~中学生らへんで興味がでてちょっとばかし手をだした記憶があります。どちらも完成はさせられなかったけど、制作するにあたっての素養みたいなものはこの時期に身についたような気がします。音楽より実は早い、小説執筆とゲーム制作。

   ・ ・ ・

 さて話を戻しまして、僕は中学生のころにようやく音楽に目覚めます。絶対音感はもう絶対に身につかない中学生からのスタートです。当時たまたま聞いたBUMP OF CHICKENから音楽と歌詞の素晴らしさに触れ、僕自身も歌詞を書いてみたい!と思い書き始めたのがきっかけだった気がします。
 この作詞も漫画と同じように好きなアーティストに影響を受けまくっていたのですが、比率はだいたい半分半分くらいで、アーティストが書いているテーマを自分の言葉で書きなおしてみる。みたいなことをしていました。

 そして、中学の終わりに叔父からアコギを譲ってもらって(今でも使ってます)、今度は作曲を始めます。高校に入ってから作詞していたものにメロディとコードをつけて"曲"という形にしていった時期ですね。ここらへんから明確に音楽の道を意識し始めました。
 しかし、当時僕は建築学科の工業高校に行っていたため、順当に行けば建築系の道へ進む予定だったのですが、選択授業でインテリアデザインを選び、そこで賞をとったことで僕の建築への道は"閉ざされ"ます。
 そうなんです。当時、選択授業で出したコンテストの中で歴代で一番いい賞をもらったはずなのですが、賞金がめっちゃ渋かったんです。お金じゃないだろ!と思うかもしれません。しかし、今は分かりませんが当時、建築系の職業の先行きが良くないかもよという噂も同時に耳にしておりまして、それが反映されたような賞金だったので、この道を歩むことへの不安が増大したんですね。
 で、僕の中で「音楽と建築どっちの道も不安定やんけ!」となり、どうせ失敗するならやりたいことやって失敗したほうがまだ納得いくと思い、音楽の道を選ぶことにしました。

   ・ ・ ・

 その後、専門学校に入った流れで組んだバンド、そして再起を掛けて始めたバンド、どちらも解散してしまい、次で駄目だったら別の道を探そうと思って始めたのがこの『時計塔プロジェクト』でした。始まるまで、ある意味では長かったですね。
 そして僕は、音楽一辺倒になっていた自身の創作に、少しずつかじっていた小説、ゲームを加えました。一人でやるぞと思ったら自然とそういう発想になっていて、すごく自分にフィットした気がしたのを覚えています。

 公開をしてみるとバンドとはまた少し違った手応えと反応をいただき「もう少しやっても大丈夫かも」と思いつつ、プロジェクトは今に至ります。
 とはいえ、このプロジェクトを安定して続けるためには、まず自分の生活を成り立たせなくてはなりません。なので、生活はもちろんのこと、自身の腕を上げるためにも音楽作家業の道も同時に模索しました。

 結局、生活がままならなければこのプロジェクトを続けるのは難しい。そんなことを思いながら作家業に挑戦するのですが、これがまたままならない。正直今もままなってないですが、当時のままならなさはそれはもう酷く、二年間ずっと休日も寝食も削りに削っても、箸にも棒にもかからず虚無の期間でした。

 当然生活はジリ貧になっていくわけですけど、これは本当に今でも運が良かったなと思うのですが、HPMPゴールドの底が見えてきたタイミングで楽曲が採用され始めたのです。当然、数曲決まっただけなのですぐにまたジリ貧になるのですが、「結局厳しいじゃん!」となった時にまた採用され始め…と、「もう終了!終わりだ終わり!」となった過去2回のタイミングをなんとか緊急回避をして今に至ります。

   ・ ・ ・

 自分の人生を振り返ってみた時に、別の道を歩もうかとよぎったタイミングで丁度別の道が閉ざされたり、創作の道が開けたりを繰り返し、気がつくとまだ創作の道を歩いていた。といった感じです。
 もうこれは僕を俯瞰している高次元の存在が僕を創作の道に歩ませているのではないかと思うくらいなのですが、その実、きっと僕が創作のことをずっと考えていて、そちらの道に進むことになんの抵抗もないからこそ、そこまで多くはない好機を見逃さないのかも、とも思ったり…。結局は進むべくして進んでいるのかもしれません。

 動画でも言いましたが、シンプルに答えると「そういう星の下に生まれたから」ということで片付けられるようなことをたっぷりと書かせていただきました。

 まだまだこの道は続くような気もしますが、その先に待っている景色はどんなもんなんでしょうね。楽しいといいなぁ。
 といったところで今回はこれにて。また次回も見ていただけると嬉しいです。それでは。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )

2025年2月5日水曜日

創作のモチベーションとインスピレーションを維持しつづけるには?

 どうも。最近、括弧は半角()派から全角()派に変わろうとしています。目玉焼きはしょうゆ派一択。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回の『亡霊横丁のアトリエ』は久々(始めたてのとき以来)の動画での更新となりました。
 編集時に収録した動画を確認しながら、最初の動画よりも圧倒的に自分の理想に近づいたものが出来上がっていて、一人で感動しておりました。度々配信で言っていたマイナーチェンジを繰り返しつつ、どこかのタイミングでそれらが刷新されて…というのを繰り返してきた一つの結果なのかなとも思いました。やっぱ継続が一番強ぇ。
 引き続きこのアトリエで遊びつつ、自身の作品の話をしつつ、創作を見せつつやっていきたいなと思っております。亡霊横丁のアトリエ』はまだまだ進化形態を残しておるぞ。

 はい。さっそく本題に移りましょう。


『創作のモチベーションとインスピレーションを維持しつづけるには?』

 あらかじめお伝えしますが、How to 的なお話というより、ずっと創作を続けていたやつがどうしてここまでモチベーション高く制作をし続けられたのかという一つのケースとしてのお話になるのかなと思っています。あくまで参考程度にしていただければ。
 とはいえ、自分自身もどうしてモチベーションが続くのかしっかりと考えたことはなかったので、自分のスタンスを再確認しつつ、今後のモチベーション維持につなげていきたいなと思っています。多分今回は真面目なお話です。

   ・ ・ ・

 まず、自分は自発的モチベーションと環境的モチベーションの二種類を持ち合わせています。
 自発的は世間一般で言われているようなモチベーションに近いニュアンスで、自分のやりたいこと、成し遂げたいことみたいな意味合いになります。時計塔プロジェクトは自発的モチベーションの権化って感じです。
 環境的は単純に自分主導ではない、周りに引っ張ってもらう形のモチベーションになります。依頼されたもの等、主にお仕事関係のニュアンスで理解していただくのが良いかなと。
 動画ではこれを「やりたいこと以外」みたいな意味合いで「やりたくないこと」と表現をしておりますが、厳密にいうと「やらなくちゃいけないこと」という文脈で表現いたしました。これは自分の仕事観にものづいた表現の仕方(後述)ですので、ネガティブな意味合いではないとご理解いただけると助かります。(やりたくないことはやらなくちゃいけないことと抱き合わせにしてクリアしていく、といえば分かりやすかったかも…)

 そんな感じで、自分はやりたいこと、やりたくないこと(やらなくちゃいけないこと)をバランスよくブレンドすることで制作のモチベーションを維持しています。

 もう少し両方のモチベーションを深堀りしていきましょう。
 自発的モチベーションは自分のやりたいこと、放っておいてもやるようなことで、僕にとってそれは創作にあたります。そこに関しては感性の話になるのでそれこそ言語化が難しく、好きであるからという話でしかないのですが、とはいえ創作の中にも苦手なことだったり面倒だなと思うことはもちろんあって、そこに関しては能動的に好きになりにいっている部分があると思います。
 ただ、無理矢理自分を騙して好きになっても意味がなくて、その苦手な工程を経ることでもっと自分の好きなものが出来上がるという経験を何度も経ることが大切なのだと思います。俗にいう成功体験を結果ではなく工程に応用していく感じです。
 僕はゴーヤが苦手なのですが(唐突)、ゴーヤチャンプルーは食べられます。それはなぜかというと、甘みのある豚肉のうまみと卵のまろやかさがゴーヤの苦みを中和し、相乗効果をもたらしてくれることを知っているからです。
 そんな感じで、「やりたいことの工程にこれを挟むとよりやりたいことに近づいたり、楽しくなる」といった感じで、バランスよく楽しいと楽しくないをブレンドしていくことでどこの工程でも躓くことなく平均的に高いモチベーションを維持できるのかなと。
 このブレンド具合は日によって違うので、それも逐一ちゃんと理解・意識することでより維持ができるようになる気がしています。

   ・ ・ ・

 続いて環境的モチベーションについて。これは非主導的(追従的)と言い換えることもできます。
 前述した仕事観の話をまずしますが、仕事において「やりたいこと」は基本的に僕が持つものではなく、クライアントさんが担うものであるべきだと考えています。僕はそのやりたいことを叶えるという責任をもって対応をしていくわけです。(僕のアイデアや感性を基にやりたいことがあるのであれば、これもクライアントさんのやりたいことに含まれるのかなとも考えています)
 これは「やらなくちゃいけないこと」になります。熱があっても睡眠時間が0でも悲しいことがあってもやりたいゲームがあってもベッドから起き上がれる限りは必ずやり遂げるものです。(過去一度、腰痛で1ミリも起き上がれない時だけ納期を1日延ばす相談をしたりしました)
 上述のとおり、これに関しては自分の性格や性質を利用したモチベーションの維持の仕方で、他人との約束ごとや、責任を伴う形にすることによりある種モチベーションとは関係ない盤外戦術で「結果的みたらモチベーションが維持されている形にする」という戦略です。
 このやり方を使って、本当に苦手なこと、やる気が起きないけどやらなくちゃいけないことを解消していくというのがこの環境的モチベーションの本懐です。
 僕の本当に苦手なことは「努力」と呼ばれているもので、苦手な音楽ジャンルを履修、対応したり、自分が満足しているものをさらにレベルアップさせたり、使ったことない音色を使ったり、楽器の練習をしたり等々…。多分放っておいたら一生やらないだろうなということを、この環境的モチベーションを絡めることによって習得していってます。
 これが最終的に自発的モチベーションに還っていったり、そもそも社会的に、生活的に創作を続けていくための基礎になっていったりしているのだと思います。
 自分はこれらのことを無意識的に「環境を整えること」に近い解釈で行っていたため、環境的モチベーションとここでは命名させていただきました。

   ・ ・ ・

 最後にもう一つのテーマ、インスピレーションについて。
 まず、モチベーションが保たれているからこそのインスピレーションだという大前提があるかと考えているので、先にモチベーションのお話をさせていただきました。
 これはインスピレーションのトリガーの一部に情報や理解があると思っておりまして、興味があることや自分が常に触れている、考えているからこそ収集・蓄積されていくものなのかなと。
 そして、この情報収集の仕方と蓄積の仕方がインスピレーションの下地になるというのが僕の考えです。
 よく言われるものとして「インプット」というワードが想像しやすいと思いますが、創作においてはただインプットするだけではなく、最終的にアウトプットすることでインプットの価値が高まっていきます。
 となると、アウトプットすることを前提にインプットをすればより良質なインプットができるのではないかと思うわけです。
 具体的には、例えば自分が関わっていない作品を鑑賞するとき、感情移入したり、感動したり、つまらなかったりという感想を抱いたときに、自分はその感想の理由を作品内で探したりします(それができないほど素晴らしい作品もたくさんありますが…)
 伏線の張り方や回収の仕方、感情の表現に使用している言葉、前後の流れ、逆に自分の感性に合わない部分はどうしてその選択をこの人はしたのかということを考察します。正解は正直なんでもよくて、自分の中で納得できる形で落とし込めればそれでよいのかなと。
 そうやって情報や感想を解釈した上で、自分の作品に落とし込む際にどんな形をしていればよいのか。というところまで情報を下拵えし、そこでようやくインプットが完了したといえるのかなと僕は考えています。(といいつつ、それらをすぐに出せるほどしっかりと保存しているわけではないですけれども…)

 動画ではよくない例えとして出しましたが、歌詞を書くのに語彙を増やそうと辞書を頭から読んでいた時期が僕にはありました。この時点でなんとなく察している方もいるかもしれませんが、その辞書から得た知識のほとんどは歌詞に応用することはなく、砂漠から砂金を見つけるがごとく、必要のない情報をたくさん取り込んでいる状態でした。今となっては最初の一文字目すら覚えてません。というか何一つ覚えてません。そもそも辞書はそういう使い方をしません。
 とまぁ、そんなわけで、インプットにも良し悪しがあるというお話でした。ここまでが「インスピレーションの下地」のお話。

   ・ ・ ・

 ここからはインスピレーションを起こすためにはという話なのですが、これは刺激や衝動、欲求が深くかかわっている気がします。
 再現性はないけど一番良いインスピの例として、インプットした情報があまりにも良質で、特に意識しなくても湯水のごとくアイデアが沸くパターンがあります。これが俗にいう「降ってきた」ってやつですね。小説、『生霊の棲むゴーストランド』や楽曲で言うと『碧色のパレード』のサビ最後「あぁ、なんて素敵な~」とかもその類です。発想から芋ずる式に全部出てくるようなパターン。
 これは本当に運が絡んでくるので再現性はないです。収集していた情報の中に、たまたまとんでもねぇものが混じってて、その情報自体がトリガーになって発想が生まれてるパターン。
 正直、全部これなら苦労はしないんですが、苦労してるってことは全部が全部これじゃないってことです。認めなさい。認めなさい…(自分に言い聞かせてます)

 ただ、刺激や欲求、というのはまだひも解く余地がありそうかなと思います。ここら辺に関しては各々違った感覚があると思うのですが、僕は制限や条件と言い換えることができるのかなと思います。
 「こういうことをしたい…」「こういうことができたら…」という理想は現実との乖離がある、つまり制限や条件が付与されるからこそ明確に見えてくるのかなと…。
 トランプゲームで例えると、手札というインプットした情報があり、そこに条件(ルール)が発生して初めて勝ち筋が見える。勝ちという理想に向けて選択肢を広げるアイデアが生まれるみたいな感じですかね。
 この手札が例えば♣クラブのAでなく🥦ブロッコリーの1258とかだとそもそも条件に合わず、使えずでインスピレーションの下地にはならないので、整った形でのインプットがやはり大事ということです。(ブロッコリーの絵文字じわじわくる)
 話が少し逸れましたが、「理想に至るまでの選択肢、アイデア」が僕にとってはですがインスピレーションなのかなと。そういう話でございました。

   ・ ・ ・

 なんでしょう。動画で話すよりもこちらの方が圧倒的に分かりやすく解説できたきがしています。動画撮影は本当に緊張していたようです。配信はもっとリラックスしてるのが謎過ぎてよく分からないです。逆に不足あったらその場で聞いてもらえるっていう環境がいいんですかね。コメントに助けられてます、ありがとうございます。

 さてさて、長くはなってしまったので早々に切り上げさせていただきます。次回の亡霊横丁のアトリエもよろしくお願いします。ではまた。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
X( @Clocktower_PJ )