2025年5月31日土曜日

影響の"受け方"を選んでいく。

 どうも。最近動画をこだわって作ることが多くなってきてまして、さすがに動画編集ソフトしっかりしたものにしなくちゃなと思いつつなかなか移行できません。Aviutl戦士、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 Aviutlは慣れてしまうとこれしか使えなくなるという呪いのアイテムらしいです。助けて。
 さぁそんなわけで今回は受ける影響を選ぶ、ということについてお話しました。オリジナリティの話や作品に自分を出すかの話をしたときに、思い返してみると自分はそういった部分で受ける影響を人間関係や環境によって上手に選択してきたなぁと思いまして、本記事ではそれについて書いていきます。


『影響の"受け方"を選んでいく。』

 自分は割と昔から他人や環境が自分にどういった影響を与えるのか?というのを考えながら生きてきました。(逆も然り)
 とにかく創作に向き合える環境に飛び込んだり、自分の感性をいい方向に導いてくれそうな人と一緒にいたり…。あくまでも自分にとってではありますが、最終的にいい創作ができるような、そんな予感がするところへ向かっていっていたりします。
 これは以前お話しした、いろんな要素や考え方からいいところだけを分析して選びとって自分のものにするという、僕自身の価値観によるものも大きいのかもしれません。創作以外にはあまりこだわりがないのもいい感じに作用している気もしていたり。

 そうして、こういった物事を毎度考察しながらとりこんでいくわけですが、取り込むためには、自分はどういう影響が欲しいのか、ということについても同時に考えることになるわけです。方向性、というやつですね。
 それらは理想の自分や理想の感性・創作とも言えるもので、そういったことを自覚し始めてから、日々の小さな事柄でも常に理想の自分に必要なことか、必要ないけどそれでもやりたいことなのか等々…なんとなくで影響されたり、なにかをすることも少なくなりました。もちろん、人によっては疲れるやり方だと思うので、あくまで僕自身がしっくりきた考え方ではありますが…。

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 影響というものは大体が受けてから、受けた影響がなにかしら表に出てきた瞬間に自覚するものではありますが、自分の場合は表に出てきた影響はどこから受けたのか、ということを考えることで、だんだんと逆算ができるようになったのだと思います。
 これらは創作だけでなく、僕自身の人格を形成していくのにも役に立っているところがあったりします。僕は自分の人生において不機嫌になったり不快な感情を覚える時間を極力少なくしたいと考えておりまして、もちろん落ち込んだり、もう駄目だと思うことが避けられないときもありますが、それらの時間がそもそもストレスだし、創作の糧にならないのであれば早急に脱したいなと思うわけです。
 そうしたことを叶えるために、いつも穏やかにしている人や、感情のコントロールが上手な人、自分以上にワーカーホリックな人、創作ジャンキーな人からその人自身の人生観や価値観、世界観を聞いて、僕自身に合ってるもの、理想を叶えるヒントなどを見つけて取り込んでいくことで、欲しい影響を受け入れていきます。(コツは、直接的な方法とかじゃなくてその人がどういう意図や意思をもってそういった行動をするのか、できるのかを知るのが結構いい感じにためになります)
 ただ、これらを叶えるためには、当たり前ですがそういった影響を与えてくれる人がいることが前提となるので、日頃から「この人はいい影響を与えてくれるかもしれない」「いつかこの人から話を聞きたい」とアンテナを張ることが肝要なのかなと。そして、それをするためにはこれもやはり日頃から理想の自分や考え方、行動を知覚しておく必要があります。
 そういったサイクルを踏むことで、卵が先か鶏が先かみたいな話になるんですけど、常に自分の向かいたい方向が分かってくる、自覚し続けるなかで、更に影響についての考察が捗っていくってワケ。

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 もちろん、影響をすべてコントロールするのは難しいとは思いますが、もしそうだったとしても「これはあの人の影響だな」とか「あの作品から影響を受けてるな…」とか、影響されたものを自覚しておくことで、その影響の解像度があがりますし、なによりそれをしっかりすることによって「影響されたもの」から「自分のもの」になっていくのかなとも思います。
 せっかく影響を受けるのであれば、自分の人生がよくなるような影響を受けたいものですね。
 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年5月29日木曜日

創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。

 どうも。数年前から心霊・オカルト系のエンタメ動画にハマってしまい夏が近づいてくるとどんな映像作品が見れるのかとわくわくするようになりました。ちなみに霊感は幼少期のころはなかったのですが、最近になってもありません。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は前回動画のお話です。先週から今週に掛けて過密にいろいろやっていたので落ち着いて文章を書けませんでしたので今書かせてもらってます。
 そんなわけで、この回ではロジックとフィーリングな制作についてお話させていただきました。理論でやるか、感覚でやるか…思っていたよりもみなさんの関心が高かったようで、今までで一番の高評価をいただきまして…いつも見てくれる方、見つけてくれた方もありがとうございますといった気持ちです。
 亡霊横丁のアトリエに呼応するようにメインチャンネルも見ていただけているようでして、規模は小さくありますが目的に沿った結果が出ていてよかったなと思っています。作品と僕自身が両輪になってこのプロジェクトを進められていければと思いますので今後ともぜひよろしくお願いします。

 それではまた、と締めたくなるような感じになってしまいましたが、ブログでも今回のトークテーマについておまけ程度に補足等してきたいと思います。よければスキマ時間のお供にでも…。


『創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。』

 そもそもこのテーマにしたきっかけとして、以前『青春はポップソーダ』のライナーノーツ内で「自分は理論派の皮を被った感覚派」と書きまして、それは一体どういうことなのか、という部分を深堀りしようとこのテーマを選びました。

 創作をするにおいて、人それぞれにスタンスというものが存在すると思いますが、根本的に二分するとしたら"理論"と"感覚"の2つなんじゃないかなと思います。
 音楽理論を習ったときは、すべてを音楽理論通りにやるのは良くないと注意され、自分の感覚だけで制作していたら、ここは不協和音だから音楽理論を元にこの音を直そうと注意されたり…。もしかすると音楽だけかもしれませんが、理論と感覚はどちらか100%に振り切ろうとするとどちらかが成り立たないような、そんな関係なのかなと思います。

 一応どんなものが理論的な創作で、どんなものが感覚的な創作なのかについて簡単に書いておくと、再現性や合理性があるものをもとにして制作することがざっくりですが理論的な創作、対して瞬間のひらめきや何かいい感じがするという直感的に制作することが感覚的な創作。とりあえずこの記事においてはそう解釈して話を進めていきます。

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 そして、上記を踏まえ自分がどちらの派閥に属するかといいますと…まぁ、書いてある通り「理論派の皮を被った感覚派」となるわけです。
 とはいえどちらも同時に成立させているわけではなくて、例えば創作のスタート時、設計やアイデアなどは結構理論的に行っていたりします。こういう展開にしたい、こういう感情を表すならこんなシーンが欲しい、このメッセージをのせるならこんなメロディがいい等、組み立てていく工程や作業と呼ばれるようなものは基本的に冷静に考えている場合が多いです。
 ただ、それらをよしとするのか、しないのか、そこの判断は感覚で行っていたりします。どれだけ理論武装されたストーリーやシーン、整然とした音だったとしても、それらが自分の感性や心、感覚に作用しなければ味気のないものに仕上がります。ここでめっちゃ根本的な話になるのですが、そもそも創作物が行き着く先、最終地点は「感情」であり「感覚」だと自分は考えているので、そこに行けないものはこと時計塔プロジェクトにおいてはNGなわけです。

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 これはどこで言ったか覚えていないのですが、自分は創作すること自体はとても理性的な行為で、感情的な部分は作品と受け取り手の間にあるものなのかなと考えています。それらを冷静に再現させることこそが創作の面白いところで、創作だからこそ得られるものなのかなとも思います。
 きっとそれらが、僕自身の創作における"理論"で作る部分、"感覚"で作る部分の線引きに影響しているのかなと。
 そんなわけで、創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。という話でございました。個人的には使い所なのかなぁと思いつつ、どちらのいいところも余すところなく頂きたいという僕の貪欲さが表れている話になった気もします。
 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

※ちなみに、『青春はポップソーダ』のライナーノーツはこちらです(宣伝)

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年5月10日土曜日

正しい努力とはなにか。を考える

 どうも。最近帰宅中の電車内でスマホの電源が切れてしまい「モバイルスイカ死んだ…」と絶望しながら改札の最後尾、イチかバチかでタッチしたら反応して「っしゃぁ!」ってなった直後残高が足りず通れませんでした。あと一歩で阻まれがちな男、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先日ほんの少しだけ時間ができたので、一瞬だけAPEX配信したのですが気づいた方いらっしゃったでしょうか。20分ほどやって4試合1キルというお散歩配信だったのでなかったことにしました。また今度ゆっくりやりたい。

 さて、そんなわけで今回は正しい努力についてお話しました。正しい努力なんてものは人それぞれの人生にあるものなので、結局は君だけの正しい努力を見つけなくてはならない。それでも他人はどう努力しているのかなと知るのは決して遠回りではないと思いながら話しました。


『正しい努力とはなにか。を考える』

 そもそも努力というのは成果や目標の距離を詰めていくことであるのは誰しもが理解していることとは思いますが、僕含め全員がいつでも距離を詰める努力ができるかと言われればそうではありません。
 努力すること自体が好きな人は稀有だと思うのでケースとしては横に置いときつつ、やはり大抵の努力は苦しく、得てして楽しいものではないのではないでしょうか。
 そんななか、僕にとっての努力とはどういうものか、という話ですが、自分の尺度でいうと「研鑽」がニュアンスとして近いように思います。
 磨く、積み重ねる、深めていくような…大木の年輪のように、重なる地層のように、なかったものを付け足していくような、できなかったことができるようにしていく、そんな感覚が近いかなと。
 例えば音楽でいうとギターで弾けるコードが増える、不得意だったジャンルの楽曲が作れるようになる、描けなかったキャラクターの側面が違和感なく描けるようになる、より効率的でバグが出づらいプログラムが書けるようになる等…。もしそれが目標に直結せずとも、目標に向けて"できることが増える"ということが、努力であり、方向性としては正しいのではないかなと思います。

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    一方で"正しくない努力"…と言い切ってしまうのは早計なので"必ずしも実るとは限らない努力"くらいな言い方が適切かなと思うのですが、そんな努力もあるかと思います。
 それは傾向として「結果を出すこと」が目標になっている場合が多いのかなと思います。例えば「評価されたい」だったり「売れたい」だったり、自己完結ではなく、他人の価値観や関係性が多分に含まれている目標は、努力とは関係ない要素も多く、どんなに努力をしても達成しづらいという側面があります。
 もちろん、その目標が正しくないわけではありません。ただ、それらをしっかりと切り分けて考えられないと、達成されない→この努力の仕方は違う→この努力はどうだ?→この努力は?と、努力の方向性を見誤ってしまうことも多いのかなと。最終的に努力することが目標となることによって目的と手段が入れ替わってしまう、なんてことも多いのかなと思われます。
 そんな中で自分が大事にしているのはやはり"できることを増やす"部分であり、それは0か1か、できるかできないか、という基準で非常に分かりやすいです。できることや、作品を作ること、現実世界に目に見える形で"存在"させることが大切であり、それらを増やすことによって最終的に「結果を出すこと」にもつながることを考えると、努力の方向性はあくまでも"できるようになる"に向けることが肝要なのかなと。そういった、方向性が定まっているインプットやトライアンドエラーが研鑽であり、それをアウトプットしていく一連の流れが僕としてはですが"正しい努力"と呼べるのではないかなと思います。

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 ちなみに、そういうことを考えずに無意識に適切な判断をできる能力が"センス"というものなのかなと思いますが、僕はセンスで生きていないので詳細は差し控えさせていただきます…。まぁだからこそ、「今していることはなんのための努力なのか」という、努力の方向性や正しさについて常に考えて明確にしているのかなとも思います。
 いろいろ書きましたが、結果を目標にするなという話でもなく、やりたいことや達成したいことのために、"できること"という、具体的なものに目を向けてそっちにまずは進んでいくことが大事なんだよ、というところでしょうか。ゲームで例えると北に行きたいけど、そこに行くためにはあの街や道を経由して、途中海があるから港に行って…みたいな、じゃあ先に馬車買ったほうが効率的か?じゃあそのためにこの村の周りで魔物狩るか…的なイメージですかね。分かりづらいですね。

 そんなことを言っていますが、僕自身いつも正しい努力ができているわけではありません。そんなとき、根本的にどうすれば目標に近づけるかという画一的な判断基準を設けています。それは「昨日の自分になんでもいいから勝つ」という基準です。制作を一ミリでも進めるでもいいし、いつも練習している歌の一音でも正確にとれるようにするでもいい。
 でもそういった細かい更新がいつか努力という形になり、できることに昇華していくのかなと。結局は気持ちなのかもしれません。
 努力は気から。それではまた、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年5月4日日曜日

オリジナリティは見つけるもの?育てるもの?

 どうも。最近APEXで初めてのダイヤランクを踏むことができました。とはいえ、いつも息抜きでやってるのでプレイ時間あまり変わらないというところ鑑みるに今シーズンはやはり比較的ラクだったのでしょう。現役ダイヤランク勢(腕組み)、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 ここのところ僕の声の音量や音質を細かく調整しているのですがなかなか難しく…。とはいえ少しずつは改善していっているのかなとは思っています。どうでしょう。
 あとはあれですね、僕自身言いたいことがあふれるとつい早口になってしまうので、そこも直していなかくてはいけないですね。頭の回転が遅くなれば口もゆったりになるので、仕事終わりか寝起きに撮るのがベストかもしれません。本当にそれはベストか…?


オリジナリティは見つけるもの?育てるもの?

 僕は作詞から始め、作曲、編曲をし始めたという遍歴があるのですが、作詞を始めた当時、創作初心者だった自分は創作といいつつも既存作品のジェネリック版のような、テーマや語彙は同じだけど製法が違うみたいなものを量産している時期がありました。
 といいつつも、自分が作ったものが未熟でそういった「補助輪」ありきで成立しているものという自覚はありまして、どこが補助輪なのか、そうでないのかという分析といいますか、切り分けをしっかりしていました。

 ちなみに、それらを続けながら、補助輪を少しずつ外しながら制作を続け、最終的に補助輪がなくても自走できたなと感じた作品が「ワンダーランド」という作品でした。
 アリスの世界観をモチーフにしつつも、それが補助輪ではなく、ワンダーランドに迷い込んだ主人公の自分と世界のあやふやな境界線を自分なりの表現を持って描けたことで、ある種対等な表現といいますか、モチーフを乗りこなしつつ世界観と表現が相乗効果をもって一つになったと初めて思えた創作がこの作品だったのです。

 先ほど「補助輪」と表現したジェネリック要素ですが、それらをどうやって判断していたのかを振り返ってみると、「違和感」という言葉に置き換えられるのかな思いました。
 創作を始めた当初の自分の作品でも、真似している部分だけどうにも不自然な感じがして、しっくりこないことが多く違和感がありました。だからこそ、その違和感を取り除いていく過程で自ずと自分だけの表現、オリジナリティが見えてきました。

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 とまぁ、以上が僕自身のオリジナリティのお話です。そしてここからはオリジナリティそのものについて考えていくのですが、そもそもオリジナリティというのは唯一無二や人と違う、というようなニュアンスで使われることも多いと思いますが、自分は制作をしていくなかで本当にそれってオリジナルか?と疑問に思う場面が時々ありました。
 例えば誰かと似ている部分や共通する要素の中にも自分らしさといえるものが含まれているのではないかと。もちろん、共通するものがありつつ、それから外れた一部分をオリジナリティと称することもできますが、結局それは要素の一部。本人自身や作品自体全てにオリジナリティがあるものはほとんど存在しえないのかなと思います。(そもそも連綿と繋がれているものなので、突然歴史上に現れた種族(媒体)でもない限りはその性質から逃れられないのかもしれません)
 そう考えていくうちに、世間で言われているオリジナリティというのはどちらかというと"独創性がある"、"他人と被らない"という、結果を元にしたある種の生存戦略であり、手法の類のものなのではないかなと僕は思い至りました。

 そうなると、きっと世間一般と僕自身のオリジナリティの解釈に齟齬があることが分かってきます。僕自身は独自性、"自分だけ"や"他人と違う"という承認欲求に近いもの、創作者として生き残るためだけの手法を排した、作品に必要なものだけを置いていく、その集合体(作品)を良いと思える"感性"そのものが自分らしさでありオリジナリティなんじゃないかと思ったわけです。言語化が難しすぎるな。
 つまりは、人と違うことがオリジナリティではなく、自分の中にあるものこそオリジナリティなのではないか、というところでしょうか。たとえ結果として誰かと似た表現になったとしても、それが自分なりの問いや感性から生まれたものなら、それは十分にオリジナルなのではないかと思うわけです。(もちろん、作品として社会に出す以上、まったく同じに見えるものは配慮が必要ですけれども…!これも難しいですね!)

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 そんなことを考えながら創作をしていくと、だんだん人との違いを気にしなくなって参りまして、最近は本当に移りゆく街を見守りゴンゴン鐘を鳴らす時計塔のような感性になりつつあります。
 ただ、そんな感性も他人の影響はあれど違和感を取り除いてできたオリジナルのもの。後生大切にしつつ、これからも僕だけの人生を歩んで行きたいと思います。

 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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