2025年4月27日日曜日

作品に"自分"を込める必要ってある?

 どうも。最近はプログラミング言語のVBAとJAVAScriptを行ったり来たりしています。だけど自然言語である英語は一向に上達しません。Duolingo放置ガチ勢、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先週から今週にかけて撮影で新潟へ行ったり来たりしてました。1年ぶりにした運転が5時間ほぼ休みなしからの翌日6時間かけて帰宅という、ツアーしてたときでもこんな移動の仕方しとらんわというハードなスケジュールでした。わしのゴールド免許が震えとったでおい。

 そんなこんなで無事に帰ってきて早々、前回のトークテーマから派生する形で今回の話をさせていただきました。作品における"自分"という、画一的に語れないテーマについて。早速書いていきましょう。


『作品に"自分"を込める必要ってある?』

 まず初めに、込めること、込めないことどちらが正しいかという話ではありません。が、あえて正しいものを定義するとすれば、込めるべき作品か、込めないほうが良い作品か、作品や、やりたい方向に合致させることが正解なのかなと思います。

 そのうえで、このトークテーマにおける"自分"とはなんなのかといいますと、主義主張や考え方、思想、本音等々…自己表現をするためにある要素、なのかなと。
 僕がずっと歩んできた音楽という媒体は特に自己表現の色が濃く、むしろそれをしてなんぼみたいな、アーティストとクリエイターの垣根がなくなりがちな媒体ではあるのですが、こと時計塔プロジェクトでは、自分(吉岡大地)自身を表現する要素は極力少なく制作していたりします。
 これに関しては指向性のようなもので、自分が表現したいものは"自分"ではない、というところにつきます。(それとはまた違う"個性"のようなものもありますが、流石にややこしいので割愛)

 これには僕自身の"世界観"が少なからず関係している気がしておりまして、僕が生きている現実世界には僕以外にもたくさんの人がいると思うのですが、それらの人に自分を理解してもらいたい!それはもう!絶対に!とはあまり思えない人間なのです。
 あくまで僕の世界観の話なのですが、そういった思想や考え方というのはその人の人生で培ったものであって、正解も不正解もその人の世界で決めることなのかなという考えを持っています。なので、他人がどんなことを考えていても基本納得できるといいますか、「うん、あなたの世界ではそういうものだよね」と皮肉とか適当にするわけでもなく心の底から理解を示すことができてしまいます。
 多分、この考え方は二通りの面がありまして、どんな人のことも理解できるのと同時に、それらを他人事だと考えていると捉えることもできます。(他人事だからこそ理解ができる、とも考えられるかもしれませんが…)
 人によっては僕が誰よりも理解者に映るときもあれば、誰よりも無関心な人間に映ることもあると思います。僕はよく「どんな話をしてもとりあえず話が通じる」と言われることもあれば、「一切主観的なことを言わないから隙がない(どんな人か分からない)」とも言われることもありまして、きっとそれは、ここらへんの感覚や距離感のせいなのかなとも思ったり…。どちらにせよ悪意はないんですけど、勘違いされやすい性格であるのは自覚しています。

 話を戻しますが、そういう世界観のもと生きているので、自分の思考の是非を決めるのも自分次第と思っておりまして、あまり誰かに自分の考えや思想を理解してしてほしい!と強くは思っていないというわけです。もちろん僕にも個人としての思想や哲学がないわけではないですが、作品を通じてそれらを表現したい、理解してもらいたいのかといわれるとあまりしっくりこないわけです。(ちなみにですが、これは"考え"に限った話で、そこから各々の世界が重なり合っていく(行動が伴う)のが社会であり、もしそこで僕に害がある形で重なってくる人がいた時、そこで初めて嫌だなぁと思います。話が難しいですね)

   ・ ・ ・

 それじゃあ君はなにを作品に込めているんだい? という話になるかと思いますが、恐らく自分は"世界"そのものを込めているのだと思います。これまた言い方が難しいのですが、こと時計塔プロジェクトの作品においてはそれぞれ独立した世界があると思っておりまして、それらは繋がっていたり、近しい世界観を共有していたとしても、『ロストピア』なら海に囲まれた孤島、『生霊の棲むゴーストランド』なら孤独の国、『時計塔の街にて』なら変則的ですが幽玄界・亡霊横丁のアトリエ等々…その作品独自の世界があり、僕はそれらを表現したくて、それらを作品に込めているのだと思います。
 それはきっと、人に感じている各々の世界観だとか、世界そのものの存在を解釈するのに似たようなものなのかもしれません。ここはもっと考察が必要な気もしますがまた本論から逸れそうなので又の機会に。

 厳密に言うと、世界を込めたいという思想を"込めている"それ自体が自分を表現することに繋がっていることになるのかもしれませんが、そこまでいくともうわけわからんくなりますね。ただ、作品に"自分"ではなく"世界"を込めているんだ。という主張は、僕にとってとてもしっくりくる主張だなと思っています。
 より純粋に作品を楽しむため、作品から始まり、作品のなかで完結するもの体験をしたい。それにあたって、作品の世界の外にいる僕は一旦放っておいてもろてって感じです。

 ただ、そんな時計塔プロジェクトの中でも"自分自身"を表現しているものがありまして…。
 そうです。この『亡霊横丁のアトリエ』がそれにあたります。表現というか、自分自身が作品世界の中にいます。これだったら僕の理念である「世界を表現する」を叶えつつ、「自分自身も表現」することも叶うという、まさかのどちらの指向性も持ったコンテンツになっているというわけです。正直偶然です。

 ですが、改めて考えると『亡霊横丁のアトリエ』も僕のやりたいことをやり続けている時計塔プロジェクトだからこそ生まれたものなのかなと。偶然の産物(不可避)というわけです。

 そんなわけで、作品における"自分"という存在は、それを表現する人間の作品、ひいては自分との向き合い方を表すものなのではないかなと思います。それが良いのか悪いのか、それは"自分"が決めることなのかもしれません。

 それではまた次回。亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
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2025年4月18日金曜日

創作をアイデンティティにする危うさについて

 どうも。最近引っ越す前によく行っていたチェーン店が引っ越し先の駅前にOPENしました。前の家でもそうでしたが、僕が住むとその周辺に便利なお店が建ちます。あとは美味しいラーメン屋を待つのみ。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作とアイデンティティについてお話させていただきました。動画を見てくれる方も少しずつ増えてきて嬉しい限りです。僕のフォロワーは創作してる人が多いのでしょうか。この記事を見てる君もそうなのかい。創作楽しんでいこうな。


『創作をアイデンティティにする危うさについて』

 まず、このトークテーマを選んだ理由として、昔「つれづれ推進委員会」というところの自己紹介文にて、「なにかを作れることが自分自身の価値だ」というようなコメントを書いたことをふと思い出しまして、もしかしたらこれって自分が創作を続けられている理由の一つなのかもしれないと思い立ち選ばせていただきました。
 以前、モチベーションとインスピレーションについて書いたとき、能動的モチベと環境的モチベがあるみたいな話をしたのですが、この能動的モチベの解像度がもう少し上がるかなと…。
(モチベの記事はこちら:https://ctpjblog.blogspot.com/2025/02/blog-post.html

 そもそも創作をアイデンティティにするということを分かりやすく明文化しておくと、作品の価値=自分の価値といったところでしょうか。 作ったものが評価されれば自分も評価されたことになるという感じですね。
 先に結論から申し上げますと、僕自身は作品の価値=自分の価値だとは思っておりません。まぁ、普段から作品と自分を切り分けて話すことが多いので、「知ってた」という方がほとんどかもしれませんが…。
 もちろん、自分の価値観とか思想が入っている作品もありますが、基本的に特に小説ゲームが顕著ですが、まったくもって自分とは違うタイプの人間の思想や、理解できない飛躍した論理等も作品の中で正しいもののように描くことも多いです。なので、それが評価されたとしても、作品の中の例えばキャラクターだったり、そういったものの評価だと自分は考えています。
 僕にとって自分の作品が評価される喜びというのは、自分自身の人間性が肯定された、理解されたという感覚とはちょっと違っていて、シンプルに「これいい作品だよ」って紹介した人に「いい作品だったぜ」とその認識を共有できる喜びに近くて、それが自分の作品だろうがBUMP OF CHICKENの楽曲だろうが「いいもの」を「いいね」と一緒に思えることが嬉しいなと思うわけです。
 もちろん、自分で作っているので完全に他人の作品と一緒の感覚というのは難しいかもしれませんが、僕の"自分の作品が認められる感覚"はこんな感じです。まぁ、特に時計塔プロジェクトでは自分が好きなものしか出してないのでそれはそうって感じかもですね、はい。

 とはいえ、じゃあ僕自身は創作をアイデンティティにしてないんかい。って話になるんですけど、微妙なニュアンスの違いかもしれませんが、僕は作品自体じゃなくて、作品を「作れること」にアイデンティティを感じているんだと思います。
 自分の中にしかなかったものをイチから自分の生きている次元に出力できる能力みたいな。言語化するとかっこいいですね。自分としては、そういうことが「できる」ことに自分の価値を感じているというのがとてもしっくりきます。
 これは冒頭に書いた「なにかを作れることが自分自身の価値だ」という言葉そのままで、あくまでも作品は作品として独立した価値があるということを、コメントを書いた当時はそこまで考えていませんでしたが、無意識にそう考えていた感じが文章からにじみ出ています。僕と作品との関係性は思ったより初志貫徹してずっと変わっていないのかもしれません。

   ・ ・ ・

 とまぁそんな具合で僕は創作物、というより創作という行為をアイデンティティにしているわけですが、ここが前述のモチベーションの話に関わってくるわけです。
 アイデンティティ、存在証明というのは、それをやめてしまった時に存在の証明ができなくなるわけです。ということは、自分の価値観を変えないかぎり、ずっとそれをし続けなくてはなりません。落ち込んでる時も、辛い時も、もう無理!やめだやめ!ってなってる時も、結局それをし続けることでしか自分の価値を保つことができません。これは他人がどう言おうと関係ありません。僕自身の価値観なので。 
 ただ、能動的モチベーションの話をしたときに自分からモチベーションを作りにいってる、好きになりにいってるみたいなこと書いたと思うんですが、それがまさにこれでして、自分の価値観すらもモチベーションに組み込むことによって続けざるをえない状況を作っているわけです。もちろんこれだけでやってるわけではなくて、続けるトリガーみたいな、とっかかりを一つでも増やそうとしているという感じが近いですかね。

 そもそもなんでそこまでするの?といったら、ここが結局根本的でゆるがない部分であることは間違いないんですけど、創作が好きっていうもうこれだけなんですよね。そこからいつもいっている「自分をもっと感動させたい」みたいなことにも繋がるんですけど。
 でも、それを叶え続けるためには、好きなことだけやっててもいつかは飽きたり、つまらない工程がやってきたり、逆に好きなことだけやろうとして視野が狭まったり、一瞬だけやるんだったら色々なものを度外視できますけど、高みを目指す、つまり続けるとなるとそれでは成立しないんですよね。
 例え続けることが辛い時があったとしても、アイデンティティをなくすよりかはマシだなと。挫けそうになったときの逃げ道の先にふりだしに戻るコマを置いておくみたいな。
 そんな感覚で、見ようによっては逃げられないようにしているとも捉えられますが、僕は「覚悟の現れ」とも表せるかなと思っています。辛いとか楽しいとかいいから作りなさい。そうやって僕を感動させてくれ、僕。って感じです。もしかしたら二重人格かもしれない。こわくなってきた。

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 それらを踏まえて、結局創作をアイデンティティにするのはどうなの?というところですが、個人的には"創作活動"をアイデンティティにするのであればやらない手はないと思います。理由は先ほど書きましたが、それによって続けられたり、良いものを作り続けられるのであれば逆にやらない選択肢ある?くらいの気持ちです。
 対して、創作したもの、作品をアイデンティティにするのは修羅の道。結構キツいんじゃないかなと思います。もちろん、作品を世に出さなければアイデンティティにしてもそこまで問題はない、むしろ強い味方になると思うのですが、どこか小さいところだったとしても公開してしまえば、その価値を他人にゆだねることになります。もしそれが自分の価値とイコールになっていたとしたら、自分の価値や存在証明を他人にゆだねることになるわけです。
 そして、アイデンティティや存在証明は生きている限りずっとし続けるものなので、もしこれが評価されたとしても、ずっと評価され続けなくては満たされなくなります。さらに怖いのが、評価というものは流動的で同じことをしても次の瞬間には評価されない可能性もあるという、脆弱性もはらんでいます。つまり、どちらにせよ行きつく先は他人に自分の価値を決めてもらうという地獄なのです。

 と、書いたところで創作活動をアイデンティティにするのも結局、どんな時だってやめることができない無限地獄なのかもしれません。好きな地獄を選んでください。そこで挑み続けることでしか得られないものもあるはず。そうしてできた作品はきっと何物にも代えがたいものになるでしょう。

 そんなわけで、次回は創作物に自分を込める必要はあるのか、という話をしようと思っています。このトークテーマの後半に話そうと思っていたのですが、めっちゃ深堀できそうだったのと、近しいようであんまり近くなかったので分けさせていただきました。

 それではまた。亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

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2025年4月12日土曜日

報われない才能を描いた作品、『秒針は夢をみる』について

 どうも。最近は確定していないFF9リメイクの情報をいつでも探しています。Youtube動画、Xのポスト、こんなところにいるはずもないのに。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は時計塔プロジェクト発足時に発表した『秒針は夢をみる』と、作品のテーマの根幹である「叶わない夢」について書いていこうと思います。


『秒針は夢をみる』について

 このゲームはRPGツクール2000というツールで作成された見下ろし型のアドベンチャーゲームになります。記憶を失った少女が少年と共に時計塔へ赴き、失った記憶を取り戻すと共に、少女が抱えていた残酷な真実を目の当たりにする。そんなお話でござます。
 制作の経緯や苦労話などは今回の動画や以前投稿した大変だった制作の話をしたときに語っているのでそちらを見ていただけると。

作品のDLはこちらから(FreeDL):https://www.clocktower-project.com/g-1

 この作品の大きなテーマとして、「夢」というものがあります。これは叶えたいもの、という意味での夢です。
 同じタイミングで『ウェンディシンドローム』という楽曲も発表したのですが、この曲は夢を諦めるその瞬間にまみえる現実逃避のような希望について書いた作品で、『秒針は夢をみる』もそんな耐え難い瞬間から始まる物語になります。この作品の主人公も、そんな苦悩を抱えている1人、というわけです。この描写や設定は時計塔プロジェクトを発足するまえの自分と重なる部分がありますね。
 「夢が叶わない」というのは夢を追っている人には相当な恐怖で、本気でやればやるほどその痛みも強いものになると思います。プロジェクト計画時(作品制作時)の自分は、創作自体が好きで、だからこそ時計塔プロジェクトを立ち上げることにわくわくもあったのですが、それと同時に、このさき同じように創作をし続けられるのだろうか、自分にはそれを叶えるだけの才能が本当にあるのかという悩みに苛まれていました。

 元々バンドマンとして(今も形は特殊ですがバンドマンではありますが)、いろいろな挫折を経験していくなかで、自分に才能はあるのかという問いかけはどうしても避けては通れないものでした。もちろん、制作する作品は間違いないものだという確信があるからこそ、それでも続けてこれているのですが、運やタイミングの要素はあれど、ずっと結果が出ないことの原因…というより改善をしていかなければならないと思うことも多くあり、それは大体が自分に才能があればクリアできるものばかりでした。

 と、ここで少しだけ話が変わるんですけど、僕は昔から自分の人生は自分だけのもので、そこで体験するものは自分にしか得られないものだと思っています。話変わり過ぎか。
 それで昔、つれづれ推進委員会で書いた「純粋フィルム」という作品のあとがきにも同じようなことを書いたのですが、同じ場所で同じ体験をしたとしても、そこに本人の人生や感覚などが乗っかり、自分の中だけに蓄積される唯一無二の経験になるわけです。

 さて話を戻しまして、僕は才能への疑問や挫折という経験を経て、最終的にそれすらも表現の一部にし、作品に昇華してやろうと思ったわけです。失敗を失敗として描き、積み上げたものが全て無駄だと分かった瞬間になにが残るのか、そういった、僕だけの体験を表現しようとこの『秒針は夢をみる』を制作しました。
 そうして成功も失敗すらも創作の糧にしていくことで、自分はもう怖いものはなくなりました。それでも、やはり不安になったり、実力が及ばず悔しくなったりしますが、それもいつかの創作のネタになる。そうすることで、自分は天国も地獄も全てひっくるめて創作を骨の髄まで味わい尽くそうと、最終的に時計塔プロジェクトを立ち上げるに至りました。

 以上が『秒針は夢をみる』のテーマである夢のお話。
 僕はなんだかんだ現実逃避を主軸にした作品をつくることが多いのですが、どれも直接的でなくとも現実の香りがする作品になってしまいます。それはきっと、こういった僕自身の創作の姿勢の現れなのかもしれませんね。
 そんなわけで、もし興味が湧いた方はちょっとでもプレイしていただけたらと思います。謎解きもあるので、苦手な方、ストーリーだけ楽しみたい方はこのブログの中に攻略情報を書いた記事があるのでそれを参考に進めてみてもよいのかもしれません。
 その先で、あなたが見ている夢について考えてみてもらえると嬉しいです。

 それではまた次回、亡霊横丁でお会いしましょう。

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2025年4月4日金曜日

正しい変化ってなに?

 先日作業中にふと足元をみたら足の指の隙間が赤黒くなっていて「え、出血してる!?」と焦ったのですがよくみたら影でした。みなさんも作業のし過ぎには気を付けましょう。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 どんなものにもタイミングというものが存在しますが、最近は多様な締め切りのタイミングが重なっててやばいです。なぜタイミングというのは偏りがあるのでしょう。ゲーム制作において偏りが激しい乱数は修正するべき要素なのでデバッグするべきだと思います。
 ええ、そうですね。人生はC#言語で書かれてないので無理ですね。おとなしく締め切り守ります。

 そんな中で収録した今回の亡霊横丁のアトリエ。間に弾き語りの配信も挟んだりしましたが、そちらの方面でも少しずつ理想の形が整いつつあります。僕が将来隠居する場所はここなのかもしれません。


『正しい変化ってなに?』

 正しい、という定義が非常に難しくはありますが、まぁいつものように時計塔プロジェクトをやっていく中での変化について書いていければと思います。

 動画の冒頭でもお話はしましたが、前提として、一個人としてはあまり変化を好まない人間だったりします。中学~高校時代で自分の人格を形成していくなかで、そこで形づいた価値観や人格が自分のなかでしっくりきてしまい、そこから自分自身はほとんど変わっていないように思えます。考え方も、価値観も誤差はあれどずっとそのままです。社会的にはあまりよくないかもしれませんが、僕としてはこの"吉岡大地"が一番過ごしやすい。とまぁ、ここを深堀りしていくと本論から外れるのでまたの機会に…。

 さて、そんな僕ではありますが、こと時計塔プロジェクトにおいて、変化というのはポジティブな意味合いを持っており、し続けなくてはならないものだと考えています。

 とはいえ、ただ変化すればよいというものではなくて、良い変化と悪い変化をしっかりと線引きし、今まで変化をしてきました。
 良い変化というのは、あくまでもこのプロジェクト内におけるものですがニュアンス的には"変遷"に近いもので、過去の作品や思想、やってきたことをしっかりと踏襲したうえでブラッシュアップをする、アップデートをしていくようなものが良い変化なのだと思います。
 逆に悪い変化として、上記のような変遷の文脈を一切無視した全く新しいことをする、というのを悪い変化だと定義(というと堅苦しいですが…)しています。

 亡霊横丁のアトリエなんかは唐突で全く新しい変化だという印象を持たれるかもしれませんが、発想の大元は『時計塔の街にて』という"作品"から来ているので、流れ的にもしっかりつながりがあります。

   ・ ・ ・

 さて、そんなプロジェクトにおいて、一貫して大きく変化させ続けてきたことが一つあります。それは、僕自身の技術や知識の蓄積です。
 これに関しては、あればあるだけプラスに作用していくものなので、何も考えず、ただただひたすらに積み重ねていっています。もちろん使い方次第ではマイナスになることもあるかと思いますが、それは使い方が間違っているだけなので、そこを矯正すればいいだけの話なのです。クオリティの高いプラグイン(ツール)を積極的に導入する、なんかも環境面の話にはなりますが、これに該当するのかなと。
 ほかにある変化といえば、制作における感性の変化などがあるかと思います。これに関しては、技術・知識と比べてかなり慎重かつ長時間にわたってじわりじわりと変化をするように意識しておりまして、他作品からの影響とか、人からの影響等々があったとしても、それをこのプロジェクトに落とし込むまでにかなりのフィルターを通したうえで反映させるようにしています。(そもそも作品を作るのにも時間が掛かるので、プロジェクトの性質上良くも悪くもここは避けられない部分ではありますが…)

 そんな変遷をしていく中で、蓄積したものや変化が一番大きく表に出たのは、『ロストピア』を発表したときかなと個人的には思っています。そして、この作品を皮切りにこのプロジェクトはさらに変化していっているように思います。
 今現在においてですが、時計塔プロジェクトの"変化"を象徴する作品を選ぶとしたら、間違いなくこの楽曲なのかなと。
 Unityを始めたり、シンプルに楽曲制作のスキルも上がっていったなかで出来上がったこの作品は、培ってきたものが結晶のように合わさって出来上がったような感覚がありまして、発足時のウェンディシンドロームのような存在感が個人的にはあります。

 とか言いつつ…初めて合成音声を使った『恋するエコー』やコンセプトを明確に打ち出して制作した『青春はポップソーダ』等々、なんだかんだ作品を出すたびに変化を昇華させたものを発表しているような気も…。
 僕自身は変わりたくないけど、新しいことはしたいという妙な精神性でこのプロジェクトは成り立っています。

 とはいえ、常に良い変化をし続けることは難しい。そもそも、"変化すること"そのものが良くない結果を生むこともあります。
 そう考えると、時計塔プロジェクトにおいて"作品の位置づけや方向性"は変化させてはいけないのかなと思います。元々このプロジェクトのターゲットは僕自身で、僕が感動できるものという意思のもと制作しているので、ここが変わってしまうとプロジェクトの根幹が変わってしまうことになります。なので、変えてはいけない…というより、そもそも変えることが難しい要素になっていますね。
 それに付随して言えることは、作品自体を指針としているこのプロジェクト自体も、きっと変わらずそこにありつづけるのかなと思っています。どんな時代になっても、変わらず時計塔プロジェクトの作品があり続けられるように、上手に変化して、上手に変化せずやっていけたらという想いです。
 
   ・ ・ ・

 最後に、いったい何が時計塔プロジェクトにとっての正しい変化なのかと考えたときに、最終的に誰のために、何のために変化をするのかという理由をしっかりと持っておくことが大切なのだと思いました。
 自分が楽をしたいがためにする変化は、大抵ほかの人が変化によって不足したものを補填していたりするものです。そういったことがない変化こそ、本来するべき変化で、様々なものが好転する正しい変化なのだと思います。もちろん、効率化や業務を圧縮することは大切なのですが、それを口実に甘えたりは決してしないよう、僕自身肝に銘じて変化をしていければなと思います。

 そんなわけで、今回のところは終わろうと思います。来週は『秒針は夢をみる』のお話と、報われない才能の昇華について話をする予定です。ではまた。

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2025年4月2日水曜日

一人ですべてやる意味はあるの?

 どうも。最近、「そういえば…」と、Youtubeにあげたココロノユライの視聴データを見たのですが、大体の人が動画を94%まで(ほぼ最後まで)見ているとのことでした。Youtubeのおすすめが需要をピンポイントで突いており関心しています。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 といいつつ、1か月ぶりにアナリティクスをみるくらい僕自身がそこまで数字に頓着しなくなりつつありますが、現代においてその感性はデメリットになりうるので難しいところだなと思ってます。ただ、そんな中で僕の作品を見てくれる方は、きっと同じ感性なのかなとも思ったり。
 難しい潮流ではありますが、僕自身は数字で感動を左右される人間にならないよう心掛けていきます(自戒)

 そんなわけで本題に行きましょう。


『一人ですべてやる意味はあるの?』

 変化の話かと思いきや前回のお話です。こういうパターンもあるぞ。備えていけ。
 時計塔プロジェクトをしていくにあたって、避けては通れない「一人」という要素。お手伝いさんすらいないガチソロプロジェクトを運営していくなかで、どういった理由で一人でやっているのか、また、どうやって成り立たせているかについて書いていければと思います。

 そもそもなんで一人で始めたかの経緯をさっくりお話すると、プロジェクト発足当時、組んでいたバンドが解散いたしまして、このあとの創作活動どうするかなと悩んだ結果、どうせ新しいことをするのであれば惜しみなくやりたいことをやってみようということで、ずっとやっていた音楽に加えて、空き時間に楽しんでいた小説とゲームを加えて始めたのがこのプロジェクトとなります。
 この三つは僕としては表現方法の違いでしかなかったのですが、いろんな人と話していくなかでこの感覚は理解してもらえないと薄々感づいていました。なので、バンドと違って簡単に協力してくれるような人は現れないだろうと思いつつ…いつかやっていれば一緒にやりたいと思ってくれる人がいるはず!と始めてそのまま今に至ります。なんでや。

   ・ ・ ・

 とはいえ、プロジェクトを一人でやっていくにあたって悪いことばかりではありません。一般的な部分に加えて、このプロジェクトにおける一人やるメリット・デメリットを挙げていきたいと思います。

 まずはメリット。これはどこでもそうだとは思いますが、やりたいことができるというのはやはり大きいです。時計塔プロジェクトを始めたのも前述の通り、やりたいことを惜しみなくやるためなので、それを叶えられるという点で一人なのは大きなメリットです。(一人でも叶えられることがやりたいこと、という点も大きい気がしますね)

 あとこれは自分でも助かるなとという部分ですが、スケジュールの自由度があるというのはなかなかのメリットかなと。
 僕はみなさん知っての通りプロジェクト外でもいろいろな草鞋を履いている関係もあって、スケジュール調整が針の穴を通すような時が多々あります。そんな激動のスケジュールでも隙間時間に制作をいれたり、逆にほかの締め切りが多いときは後回しにしたり等、世捨て人になりたい一方で社会性も捨てがたい僕にとって、このスケジュールの自由というのはとてもやりやすいメリットなのです。

 他に自分ならではの視点かなと思うものでいうと、納得いくまで作り直せるというのもメリットです。僕は自分の制作物は気に入らないと最初から作り直す癖があるので(コンペで作る楽曲とかも実はめっちゃ作り直して正解ににじり寄ってます)、個人ですべての工程をやるとなったときは、そこも自由にやり直せるのがめちゃくちゃいいところかなと。
 どちらかといえば僕はめっちゃ気遣いしいなので、人とやるとやり直したくても絶対に言えない気がしています。逆の立場だと、人のやりたいことに沿う形でやったのにやり直しって結構残念に思ってしまうなぁとも思うので、改めて難しいところだなぁと。

 やり直しについて書いててふと思い出したのですが、幼少の頃、おばあちゃん家においてあったレゴで家とか武器とか要塞みたいなものを作ったりしてたんですけど、下のいとこに結構壊されてたんですよね。でも僕としてはそれでも全然よくて、むしろその作品で得た積み方やつなぎ方を使って他のものを作りたいみたいな、強くてニューゲーム的な感じで新しいものを作るのが好きでした。きっとやり直し癖や自分の作ったもので得たものを使ってもっと良いものを作るみたいなマインドはここらへんからすでに培われていたのかもしれません。

 メリットが長くなってしまいました。他の細かいことは動画でお話してるのでそこで聴いてもらえると嬉しいです。

   ・ ・ ・

    続いてデメリット。これも誰もが思うことを最初に挙げますが、一つひとつの制作がとても重いということですね。どの工程も僕が担当するので、チームで400mリレーをやってるところに一人で乗り込んでるみたいなもので、なかなか無茶なことが多々あります。
 とはいえ、僕自身作業を圧縮したり省略することに余念がないこともあって、なんとか周回遅れにはならないくらいでなんとか食らいついています。少し前の話ですが、事務仕事を新人に教えたとき、吉岡さんのPC操作アクションゲーム並に早いですねと引かれたこともありました。その時は「おいおい…このスピードじゃないとここではやっていけないぜ?」などとは言えず「早くやってるフリしてるだけですよ」という謎の回答をしました。

 あとは、ここは一長一短な部分ではありますが、現状では金銭面でのデメリットも大きいです。このプロジェクトの収益は基本的にプラットフォーム周りの整理や配信サイト周り、サーバー維持などのランニングコスト系に優先的にあてがわせて頂いているのですが、この維持がなかなかどうして難しかったりするわけです。「現状維持とは常に少し進むことを意味」すると誰かが言っていた気がしますが言いえて妙とはこのことだなと。
 これに関しては、このプロジェクト自体のバランスも起因していますかね。自己の価値と社会的な価値とのシーソーゲームはどこにでも、誰にでもあると思いますが、こと時計塔プロジェクトに関しては自己の価値の比重がめっちゃ重いので…まぁ…ね、そういうことです。でも"吉岡大地"本人としてはしっかりとバランスをとっているのでご安心ください。お仕事頑張ってます。

 あともう一つデメリットをあげるとするならば、方針を間違ったときにすぐに止められない(気付けない)というのがデメリットかなと。雁首揃えた大人たちでも間違えることがあるんだから、一人だとなおさらやばい。客観的であろうとはしていますが、結局は主観の中での客観なので、もし「こいつやっとんなぁ…」となったらDMでもコメントでもテレパシーでも矢文でも伝書鳩でもいいので止めてください。
 とはいえ、時計塔プロジェクトはそもそもが「制作する作品」それ自体を指針にしているので、作品が変わるということは、僕自身の感性の変化も意味するので、そういった意味では性質的に方針が大きく変わることはないのかなとは思っています。

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 そんなわけで、なぜ一人でやっているのかというところがなんとなく分かっていただけたかなと思います。まずデメリットを超えるメリットがあるのは言わずものがなですが、デメリットも工夫次第でなんとかなってるのも大きいのかなと思います。
 それは僕自身がそういう環境づくりを頑張っているところもありますが、これを見てくれているみなさんがとても寛容で、放任主義的にやらせてもらえているおかげもあるのかなと思っています。徐行運転でも待ってくれていてありがとうございます。

 一人で大変なこともありますが、だからこそここまで続いている側面もあるので、引き続き、自分を楽しませられる良い作品を作っていきたいと思います。

 それではまた、亡霊横丁のアトリエで会いましょう。

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