2025年5月29日木曜日

創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。

 どうも。数年前から心霊・オカルト系のエンタメ動画にハマってしまい夏が近づいてくるとどんな映像作品が見れるのかとわくわくするようになりました。ちなみに霊感は幼少期のころはなかったのですが、最近になってもありません。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は前回動画のお話です。先週から今週に掛けて過密にいろいろやっていたので落ち着いて文章を書けませんでしたので今書かせてもらってます。
 そんなわけで、この回ではロジックとフィーリングな制作についてお話させていただきました。理論でやるか、感覚でやるか…思っていたよりもみなさんの関心が高かったようで、今までで一番の高評価をいただきまして…いつも見てくれる方、見つけてくれた方もありがとうございますといった気持ちです。
 亡霊横丁のアトリエに呼応するようにメインチャンネルも見ていただけているようでして、規模は小さくありますが目的に沿った結果が出ていてよかったなと思っています。作品と僕自身が両輪になってこのプロジェクトを進められていければと思いますので今後ともぜひよろしくお願いします。

 それではまた、と締めたくなるような感じになってしまいましたが、ブログでも今回のトークテーマについておまけ程度に補足等してきたいと思います。よければスキマ時間のお供にでも…。


『創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。』

 そもそもこのテーマにしたきっかけとして、以前『青春はポップソーダ』のライナーノーツ内で「自分は理論派の皮を被った感覚派」と書きまして、それは一体どういうことなのか、という部分を深堀りしようとこのテーマを選びました。

 創作をするにおいて、人それぞれにスタンスというものが存在すると思いますが、根本的に二分するとしたら"理論"と"感覚"の2つなんじゃないかなと思います。
 音楽理論を習ったときは、すべてを音楽理論通りにやるのは良くないと注意され、自分の感覚だけで制作していたら、ここは不協和音だから音楽理論を元にこの音を直そうと注意されたり…。もしかすると音楽だけかもしれませんが、理論と感覚はどちらか100%に振り切ろうとするとどちらかが成り立たないような、そんな関係なのかなと思います。

 一応どんなものが理論的な創作で、どんなものが感覚的な創作なのかについて簡単に書いておくと、再現性や合理性があるものをもとにして制作することがざっくりですが理論的な創作、対して瞬間のひらめきや何かいい感じがするという直感的に制作することが感覚的な創作。とりあえずこの記事においてはそう解釈して話を進めていきます。

   ・ ・ ・

 そして、上記を踏まえ自分がどちらの派閥に属するかといいますと…まぁ、書いてある通り「理論派の皮を被った感覚派」となるわけです。
 とはいえどちらも同時に成立させているわけではなくて、例えば創作のスタート時、設計やアイデアなどは結構理論的に行っていたりします。こういう展開にしたい、こういう感情を表すならこんなシーンが欲しい、このメッセージをのせるならこんなメロディがいい等、組み立てていく工程や作業と呼ばれるようなものは基本的に冷静に考えている場合が多いです。
 ただ、それらをよしとするのか、しないのか、そこの判断は感覚で行っていたりします。どれだけ理論武装されたストーリーやシーン、整然とした音だったとしても、それらが自分の感性や心、感覚に作用しなければ味気のないものに仕上がります。ここでめっちゃ根本的な話になるのですが、そもそも創作物が行き着く先、最終地点は「感情」であり「感覚」だと自分は考えているので、そこに行けないものはこと時計塔プロジェクトにおいてはNGなわけです。

   ・ ・ ・

 これはどこで言ったか覚えていないのですが、自分は創作すること自体はとても理性的な行為で、感情的な部分は作品と受け取り手の間にあるものなのかなと考えています。それらを冷静に再現させることこそが創作の面白いところで、創作だからこそ得られるものなのかなとも思います。
 きっとそれらが、僕自身の創作における"理論"で作る部分、"感覚"で作る部分の線引きに影響しているのかなと。
 そんなわけで、創作は"理論"でやるものか、"感覚"でやるものか。という話でございました。個人的には使い所なのかなぁと思いつつ、どちらのいいところも余すところなく頂きたいという僕の貪欲さが表れている話になった気もします。
 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

※ちなみに、『青春はポップソーダ』のライナーノーツはこちらです(宣伝)

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )

2025年5月10日土曜日

正しい努力とはなにか。を考える

 どうも。最近帰宅中の電車内でスマホの電源が切れてしまい「モバイルスイカ死んだ…」と絶望しながら改札の最後尾、イチかバチかでタッチしたら反応して「っしゃぁ!」ってなった直後残高が足りず通れませんでした。あと一歩で阻まれがちな男、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先日ほんの少しだけ時間ができたので、一瞬だけAPEX配信したのですが気づいた方いらっしゃったでしょうか。20分ほどやって4試合1キルというお散歩配信だったのでなかったことにしました。また今度ゆっくりやりたい。

 さて、そんなわけで今回は正しい努力についてお話しました。正しい努力なんてものは人それぞれの人生にあるものなので、結局は君だけの正しい努力を見つけなくてはならない。それでも他人はどう努力しているのかなと知るのは決して遠回りではないと思いながら話しました。


『正しい努力とはなにか。を考える』

 そもそも努力というのは成果や目標の距離を詰めていくことであるのは誰しもが理解していることとは思いますが、僕含め全員がいつでも距離を詰める努力ができるかと言われればそうではありません。
 努力すること自体が好きな人は稀有だと思うのでケースとしては横に置いときつつ、やはり大抵の努力は苦しく、得てして楽しいものではないのではないでしょうか。
 そんななか、僕にとっての努力とはどういうものか、という話ですが、自分の尺度でいうと「研鑽」がニュアンスとして近いように思います。
 磨く、積み重ねる、深めていくような…大木の年輪のように、重なる地層のように、なかったものを付け足していくような、できなかったことができるようにしていく、そんな感覚が近いかなと。
 例えば音楽でいうとギターで弾けるコードが増える、不得意だったジャンルの楽曲が作れるようになる、描けなかったキャラクターの側面が違和感なく描けるようになる、より効率的でバグが出づらいプログラムが書けるようになる等…。もしそれが目標に直結せずとも、目標に向けて"できることが増える"ということが、努力であり、方向性としては正しいのではないかなと思います。

   ・ ・ ・

    一方で"正しくない努力"…と言い切ってしまうのは早計なので"必ずしも実るとは限らない努力"くらいな言い方が適切かなと思うのですが、そんな努力もあるかと思います。
 それは傾向として「結果を出すこと」が目標になっている場合が多いのかなと思います。例えば「評価されたい」だったり「売れたい」だったり、自己完結ではなく、他人の価値観や関係性が多分に含まれている目標は、努力とは関係ない要素も多く、どんなに努力をしても達成しづらいという側面があります。
 もちろん、その目標が正しくないわけではありません。ただ、それらをしっかりと切り分けて考えられないと、達成されない→この努力の仕方は違う→この努力はどうだ?→この努力は?と、努力の方向性を見誤ってしまうことも多いのかなと。最終的に努力することが目標となることによって目的と手段が入れ替わってしまう、なんてことも多いのかなと思われます。
 そんな中で自分が大事にしているのはやはり"できることを増やす"部分であり、それは0か1か、できるかできないか、という基準で非常に分かりやすいです。できることや、作品を作ること、現実世界に目に見える形で"存在"させることが大切であり、それらを増やすことによって最終的に「結果を出すこと」にもつながることを考えると、努力の方向性はあくまでも"できるようになる"に向けることが肝要なのかなと。そういった、方向性が定まっているインプットやトライアンドエラーが研鑽であり、それをアウトプットしていく一連の流れが僕としてはですが"正しい努力"と呼べるのではないかなと思います。

   ・ ・ ・

 ちなみに、そういうことを考えずに無意識に適切な判断をできる能力が"センス"というものなのかなと思いますが、僕はセンスで生きていないので詳細は差し控えさせていただきます…。まぁだからこそ、「今していることはなんのための努力なのか」という、努力の方向性や正しさについて常に考えて明確にしているのかなとも思います。
 いろいろ書きましたが、結果を目標にするなという話でもなく、やりたいことや達成したいことのために、"できること"という、具体的なものに目を向けてそっちにまずは進んでいくことが大事なんだよ、というところでしょうか。ゲームで例えると北に行きたいけど、そこに行くためにはあの街や道を経由して、途中海があるから港に行って…みたいな、じゃあ先に馬車買ったほうが効率的か?じゃあそのためにこの村の周りで魔物狩るか…的なイメージですかね。分かりづらいですね。

 そんなことを言っていますが、僕自身いつも正しい努力ができているわけではありません。そんなとき、根本的にどうすれば目標に近づけるかという画一的な判断基準を設けています。それは「昨日の自分になんでもいいから勝つ」という基準です。制作を一ミリでも進めるでもいいし、いつも練習している歌の一音でも正確にとれるようにするでもいい。
 でもそういった細かい更新がいつか努力という形になり、できることに昇華していくのかなと。結局は気持ちなのかもしれません。
 努力は気から。それではまた、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )

2025年5月4日日曜日

オリジナリティは見つけるもの?育てるもの?

 どうも。最近APEXで初めてのダイヤランクを踏むことができました。とはいえ、いつも息抜きでやってるのでプレイ時間あまり変わらないというところ鑑みるに今シーズンはやはり比較的ラクだったのでしょう。現役ダイヤランク勢(腕組み)、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 ここのところ僕の声の音量や音質を細かく調整しているのですがなかなか難しく…。とはいえ少しずつは改善していっているのかなとは思っています。どうでしょう。
 あとはあれですね、僕自身言いたいことがあふれるとつい早口になってしまうので、そこも直していなかくてはいけないですね。頭の回転が遅くなれば口もゆったりになるので、仕事終わりか寝起きに撮るのがベストかもしれません。本当にそれはベストか…?


オリジナリティは見つけるもの?育てるもの?

 僕は作詞から始め、作曲、編曲をし始めたという遍歴があるのですが、作詞を始めた当時、創作初心者だった自分は創作といいつつも既存作品のジェネリック版のような、テーマや語彙は同じだけど製法が違うみたいなものを量産している時期がありました。
 といいつつも、自分が作ったものが未熟でそういった「補助輪」ありきで成立しているものという自覚はありまして、どこが補助輪なのか、そうでないのかという分析といいますか、切り分けをしっかりしていました。

 ちなみに、それらを続けながら、補助輪を少しずつ外しながら制作を続け、最終的に補助輪がなくても自走できたなと感じた作品が「ワンダーランド」という作品でした。
 アリスの世界観をモチーフにしつつも、それが補助輪ではなく、ワンダーランドに迷い込んだ主人公の自分と世界のあやふやな境界線を自分なりの表現を持って描けたことで、ある種対等な表現といいますか、モチーフを乗りこなしつつ世界観と表現が相乗効果をもって一つになったと初めて思えた創作がこの作品だったのです。

 先ほど「補助輪」と表現したジェネリック要素ですが、それらをどうやって判断していたのかを振り返ってみると、「違和感」という言葉に置き換えられるのかな思いました。
 創作を始めた当初の自分の作品でも、真似している部分だけどうにも不自然な感じがして、しっくりこないことが多く違和感がありました。だからこそ、その違和感を取り除いていく過程で自ずと自分だけの表現、オリジナリティが見えてきました。

   ・ ・ ・

 とまぁ、以上が僕自身のオリジナリティのお話です。そしてここからはオリジナリティそのものについて考えていくのですが、そもそもオリジナリティというのは唯一無二や人と違う、というようなニュアンスで使われることも多いと思いますが、自分は制作をしていくなかで本当にそれってオリジナルか?と疑問に思う場面が時々ありました。
 例えば誰かと似ている部分や共通する要素の中にも自分らしさといえるものが含まれているのではないかと。もちろん、共通するものがありつつ、それから外れた一部分をオリジナリティと称することもできますが、結局それは要素の一部。本人自身や作品自体全てにオリジナリティがあるものはほとんど存在しえないのかなと思います。(そもそも連綿と繋がれているものなので、突然歴史上に現れた種族(媒体)でもない限りはその性質から逃れられないのかもしれません)
 そう考えていくうちに、世間で言われているオリジナリティというのはどちらかというと"独創性がある"、"他人と被らない"という、結果を元にしたある種の生存戦略であり、手法の類のものなのではないかなと僕は思い至りました。

 そうなると、きっと世間一般と僕自身のオリジナリティの解釈に齟齬があることが分かってきます。僕自身は独自性、"自分だけ"や"他人と違う"という承認欲求に近いもの、創作者として生き残るためだけの手法を排した、作品に必要なものだけを置いていく、その集合体(作品)を良いと思える"感性"そのものが自分らしさでありオリジナリティなんじゃないかと思ったわけです。言語化が難しすぎるな。
 つまりは、人と違うことがオリジナリティではなく、自分の中にあるものこそオリジナリティなのではないか、というところでしょうか。たとえ結果として誰かと似た表現になったとしても、それが自分なりの問いや感性から生まれたものなら、それは十分にオリジナルなのではないかと思うわけです。(もちろん、作品として社会に出す以上、まったく同じに見えるものは配慮が必要ですけれども…!これも難しいですね!)

   ・ ・ ・

 そんなことを考えながら創作をしていくと、だんだん人との違いを気にしなくなって参りまして、最近は本当に移りゆく街を見守りゴンゴン鐘を鳴らす時計塔のような感性になりつつあります。
 ただ、そんな感性も他人の影響はあれど違和感を取り除いてできたオリジナルのもの。後生大切にしつつ、これからも僕だけの人生を歩んで行きたいと思います。

 それではまた次回、亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )

2025年4月27日日曜日

作品に"自分"を込める必要ってある?

 どうも。最近はプログラミング言語のVBAとJAVAScriptを行ったり来たりしています。だけど自然言語である英語は一向に上達しません。Duolingo放置ガチ勢、時計塔プロジェクトの吉岡です。

 先週から今週にかけて撮影で新潟へ行ったり来たりしてました。1年ぶりにした運転が5時間ほぼ休みなしからの翌日6時間かけて帰宅という、ツアーしてたときでもこんな移動の仕方しとらんわというハードなスケジュールでした。わしのゴールド免許が震えとったでおい。

 そんなこんなで無事に帰ってきて早々、前回のトークテーマから派生する形で今回の話をさせていただきました。作品における"自分"という、画一的に語れないテーマについて。早速書いていきましょう。


『作品に"自分"を込める必要ってある?』

 まず初めに、込めること、込めないことどちらが正しいかという話ではありません。が、あえて正しいものを定義するとすれば、込めるべき作品か、込めないほうが良い作品か、作品や、やりたい方向に合致させることが正解なのかなと思います。

 そのうえで、このトークテーマにおける"自分"とはなんなのかといいますと、主義主張や考え方、思想、本音等々…自己表現をするためにある要素、なのかなと。
 僕がずっと歩んできた音楽という媒体は特に自己表現の色が濃く、むしろそれをしてなんぼみたいな、アーティストとクリエイターの垣根がなくなりがちな媒体ではあるのですが、こと時計塔プロジェクトでは、自分(吉岡大地)自身を表現する要素は極力少なく制作していたりします。
 これに関しては指向性のようなもので、自分が表現したいものは"自分"ではない、というところにつきます。(それとはまた違う"個性"のようなものもありますが、流石にややこしいので割愛)

 これには僕自身の"世界観"が少なからず関係している気がしておりまして、僕が生きている現実世界には僕以外にもたくさんの人がいると思うのですが、それらの人に自分を理解してもらいたい!それはもう!絶対に!とはあまり思えない人間なのです。
 あくまで僕の世界観の話なのですが、そういった思想や考え方というのはその人の人生で培ったものであって、正解も不正解もその人の世界で決めることなのかなという考えを持っています。なので、他人がどんなことを考えていても基本納得できるといいますか、「うん、あなたの世界ではそういうものだよね」と皮肉とか適当にするわけでもなく心の底から理解を示すことができてしまいます。
 多分、この考え方は二通りの面がありまして、どんな人のことも理解できるのと同時に、それらを他人事だと考えていると捉えることもできます。(他人事だからこそ理解ができる、とも考えられるかもしれませんが…)
 人によっては僕が誰よりも理解者に映るときもあれば、誰よりも無関心な人間に映ることもあると思います。僕はよく「どんな話をしてもとりあえず話が通じる」と言われることもあれば、「一切主観的なことを言わないから隙がない(どんな人か分からない)」とも言われることもありまして、きっとそれは、ここらへんの感覚や距離感のせいなのかなとも思ったり…。どちらにせよ悪意はないんですけど、勘違いされやすい性格であるのは自覚しています。

 話を戻しますが、そういう世界観のもと生きているので、自分の思考の是非を決めるのも自分次第と思っておりまして、あまり誰かに自分の考えや思想を理解してしてほしい!と強くは思っていないというわけです。もちろん僕にも個人としての思想や哲学がないわけではないですが、作品を通じてそれらを表現したい、理解してもらいたいのかといわれるとあまりしっくりこないわけです。(ちなみにですが、これは"考え"に限った話で、そこから各々の世界が重なり合っていく(行動が伴う)のが社会であり、もしそこで僕に害がある形で重なってくる人がいた時、そこで初めて嫌だなぁと思います。話が難しいですね)

   ・ ・ ・

 それじゃあ君はなにを作品に込めているんだい? という話になるかと思いますが、恐らく自分は"世界"そのものを込めているのだと思います。これまた言い方が難しいのですが、こと時計塔プロジェクトの作品においてはそれぞれ独立した世界があると思っておりまして、それらは繋がっていたり、近しい世界観を共有していたとしても、『ロストピア』なら海に囲まれた孤島、『生霊の棲むゴーストランド』なら孤独の国、『時計塔の街にて』なら変則的ですが幽玄界・亡霊横丁のアトリエ等々…その作品独自の世界があり、僕はそれらを表現したくて、それらを作品に込めているのだと思います。
 それはきっと、人に感じている各々の世界観だとか、世界そのものの存在を解釈するのに似たようなものなのかもしれません。ここはもっと考察が必要な気もしますがまた本論から逸れそうなので又の機会に。

 厳密に言うと、世界を込めたいという思想を"込めている"それ自体が自分を表現することに繋がっていることになるのかもしれませんが、そこまでいくともうわけわからんくなりますね。ただ、作品に"自分"ではなく"世界"を込めているんだ。という主張は、僕にとってとてもしっくりくる主張だなと思っています。
 より純粋に作品を楽しむため、作品から始まり、作品のなかで完結するもの体験をしたい。それにあたって、作品の世界の外にいる僕は一旦放っておいてもろてって感じです。

 ただ、そんな時計塔プロジェクトの中でも"自分自身"を表現しているものがありまして…。
 そうです。この『亡霊横丁のアトリエ』がそれにあたります。表現というか、自分自身が作品世界の中にいます。これだったら僕の理念である「世界を表現する」を叶えつつ、「自分自身も表現」することも叶うという、まさかのどちらの指向性も持ったコンテンツになっているというわけです。正直偶然です。

 ですが、改めて考えると『亡霊横丁のアトリエ』も僕のやりたいことをやり続けている時計塔プロジェクトだからこそ生まれたものなのかなと。偶然の産物(不可避)というわけです。

 そんなわけで、作品における"自分"という存在は、それを表現する人間の作品、ひいては自分との向き合い方を表すものなのではないかなと思います。それが良いのか悪いのか、それは"自分"が決めることなのかもしれません。

 それではまた次回。亡霊横丁のアトリエにてお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )

2025年4月18日金曜日

創作をアイデンティティにする危うさについて

 どうも。最近引っ越す前によく行っていたチェーン店が引っ越し先の駅前にOPENしました。前の家でもそうでしたが、僕が住むとその周辺に便利なお店が建ちます。あとは美味しいラーメン屋を待つのみ。時計塔プロジェクトの吉岡です。

 今回は創作とアイデンティティについてお話させていただきました。動画を見てくれる方も少しずつ増えてきて嬉しい限りです。僕のフォロワーは創作してる人が多いのでしょうか。この記事を見てる君もそうなのかい。創作楽しんでいこうな。


『創作をアイデンティティにする危うさについて』

 まず、このトークテーマを選んだ理由として、昔「つれづれ推進委員会」というところの自己紹介文にて、「なにかを作れることが自分自身の価値だ」というようなコメントを書いたことをふと思い出しまして、もしかしたらこれって自分が創作を続けられている理由の一つなのかもしれないと思い立ち選ばせていただきました。
 以前、モチベーションとインスピレーションについて書いたとき、能動的モチベと環境的モチベがあるみたいな話をしたのですが、この能動的モチベの解像度がもう少し上がるかなと…。
(モチベの記事はこちら:https://ctpjblog.blogspot.com/2025/02/blog-post.html

 そもそも創作をアイデンティティにするということを分かりやすく明文化しておくと、作品の価値=自分の価値といったところでしょうか。 作ったものが評価されれば自分も評価されたことになるという感じですね。
 先に結論から申し上げますと、僕自身は作品の価値=自分の価値だとは思っておりません。まぁ、普段から作品と自分を切り分けて話すことが多いので、「知ってた」という方がほとんどかもしれませんが…。
 もちろん、自分の価値観とか思想が入っている作品もありますが、基本的に特に小説ゲームが顕著ですが、まったくもって自分とは違うタイプの人間の思想や、理解できない飛躍した論理等も作品の中で正しいもののように描くことも多いです。なので、それが評価されたとしても、作品の中の例えばキャラクターだったり、そういったものの評価だと自分は考えています。
 僕にとって自分の作品が評価される喜びというのは、自分自身の人間性が肯定された、理解されたという感覚とはちょっと違っていて、シンプルに「これいい作品だよ」って紹介した人に「いい作品だったぜ」とその認識を共有できる喜びに近くて、それが自分の作品だろうがBUMP OF CHICKENの楽曲だろうが「いいもの」を「いいね」と一緒に思えることが嬉しいなと思うわけです。
 もちろん、自分で作っているので完全に他人の作品と一緒の感覚というのは難しいかもしれませんが、僕の"自分の作品が認められる感覚"はこんな感じです。まぁ、特に時計塔プロジェクトでは自分が好きなものしか出してないのでそれはそうって感じかもですね、はい。

 とはいえ、じゃあ僕自身は創作をアイデンティティにしてないんかい。って話になるんですけど、微妙なニュアンスの違いかもしれませんが、僕は作品自体じゃなくて、作品を「作れること」にアイデンティティを感じているんだと思います。
 自分の中にしかなかったものをイチから自分の生きている次元に出力できる能力みたいな。言語化するとかっこいいですね。自分としては、そういうことが「できる」ことに自分の価値を感じているというのがとてもしっくりきます。
 これは冒頭に書いた「なにかを作れることが自分自身の価値だ」という言葉そのままで、あくまでも作品は作品として独立した価値があるということを、コメントを書いた当時はそこまで考えていませんでしたが、無意識にそう考えていた感じが文章からにじみ出ています。僕と作品との関係性は思ったより初志貫徹してずっと変わっていないのかもしれません。

   ・ ・ ・

 とまぁそんな具合で僕は創作物、というより創作という行為をアイデンティティにしているわけですが、ここが前述のモチベーションの話に関わってくるわけです。
 アイデンティティ、存在証明というのは、それをやめてしまった時に存在の証明ができなくなるわけです。ということは、自分の価値観を変えないかぎり、ずっとそれをし続けなくてはなりません。落ち込んでる時も、辛い時も、もう無理!やめだやめ!ってなってる時も、結局それをし続けることでしか自分の価値を保つことができません。これは他人がどう言おうと関係ありません。僕自身の価値観なので。 
 ただ、能動的モチベーションの話をしたときに自分からモチベーションを作りにいってる、好きになりにいってるみたいなこと書いたと思うんですが、それがまさにこれでして、自分の価値観すらもモチベーションに組み込むことによって続けざるをえない状況を作っているわけです。もちろんこれだけでやってるわけではなくて、続けるトリガーみたいな、とっかかりを一つでも増やそうとしているという感じが近いですかね。

 そもそもなんでそこまでするの?といったら、ここが結局根本的でゆるがない部分であることは間違いないんですけど、創作が好きっていうもうこれだけなんですよね。そこからいつもいっている「自分をもっと感動させたい」みたいなことにも繋がるんですけど。
 でも、それを叶え続けるためには、好きなことだけやっててもいつかは飽きたり、つまらない工程がやってきたり、逆に好きなことだけやろうとして視野が狭まったり、一瞬だけやるんだったら色々なものを度外視できますけど、高みを目指す、つまり続けるとなるとそれでは成立しないんですよね。
 例え続けることが辛い時があったとしても、アイデンティティをなくすよりかはマシだなと。挫けそうになったときの逃げ道の先にふりだしに戻るコマを置いておくみたいな。
 そんな感覚で、見ようによっては逃げられないようにしているとも捉えられますが、僕は「覚悟の現れ」とも表せるかなと思っています。辛いとか楽しいとかいいから作りなさい。そうやって僕を感動させてくれ、僕。って感じです。もしかしたら二重人格かもしれない。こわくなってきた。

   ・ ・ ・

 それらを踏まえて、結局創作をアイデンティティにするのはどうなの?というところですが、個人的には"創作活動"をアイデンティティにするのであればやらない手はないと思います。理由は先ほど書きましたが、それによって続けられたり、良いものを作り続けられるのであれば逆にやらない選択肢ある?くらいの気持ちです。
 対して、創作したもの、作品をアイデンティティにするのは修羅の道。結構キツいんじゃないかなと思います。もちろん、作品を世に出さなければアイデンティティにしてもそこまで問題はない、むしろ強い味方になると思うのですが、どこか小さいところだったとしても公開してしまえば、その価値を他人にゆだねることになります。もしそれが自分の価値とイコールになっていたとしたら、自分の価値や存在証明を他人にゆだねることになるわけです。
 そして、アイデンティティや存在証明は生きている限りずっとし続けるものなので、もしこれが評価されたとしても、ずっと評価され続けなくては満たされなくなります。さらに怖いのが、評価というものは流動的で同じことをしても次の瞬間には評価されない可能性もあるという、脆弱性もはらんでいます。つまり、どちらにせよ行きつく先は他人に自分の価値を決めてもらうという地獄なのです。

 と、書いたところで創作活動をアイデンティティにするのも結局、どんな時だってやめることができない無限地獄なのかもしれません。好きな地獄を選んでください。そこで挑み続けることでしか得られないものもあるはず。そうしてできた作品はきっと何物にも代えがたいものになるでしょう。

 そんなわけで、次回は創作物に自分を込める必要はあるのか、という話をしようと思っています。このトークテーマの後半に話そうと思っていたのですが、めっちゃ深堀できそうだったのと、近しいようであんまり近くなかったので分けさせていただきました。

 それではまた。亡霊横丁のアトリエでお会いしましょう。

時計塔プロジェクト 吉岡
公式サイト( http://clocktower-project.com/ )
Twitter( @Clocktower_PJ )